『義経千本桜』<よしつねせんぼんざくら>

  『義経千本桜』は、竹田出雲<いずも>・並木千柳<せんりゅう>・三好松洛<みよししょうらく>合作の人形浄瑠璃で、延享4年(1747)11月大坂の竹本座で初演され、翌5(1748)年5月に歌舞伎でも上演されている。『義経千本桜』は義経伝説と壇ノ浦で没落した平家の後日談に取材した作品で、『仮名手本忠臣蔵』や『菅原伝授手習鑑<すがわらでんじゅてならいかがみ>』とならび、人形浄瑠璃の三大傑作とされる。特に、二段目の碇知盛<いかりとももり>、三段目の鮓屋、四段目の吉野山道行と河連館<かわつらやかた>は、今日でも頻繁に上演される人気演目である。

 壇ノ浦で源氏に敗れた平知盛は、身をやつし大物浦で渡海屋<とかいや>銀平として廻船業を営んでいる。安徳天皇と乳人典侍局<すけのつぼね>も、それぞれ銀平娘お安、銀平女房おりゅうとして身を隠しながら生活を送っていた。そこへ、都から落ちてきた義経一向がやってくる。知盛は正体を隠して義経を討とうとするが、計画は失敗し、安徳天皇を義経に託して入水する。展示№20は、本性をあらわした知盛が義経を討とうとするところへ弁慶が現れ、数珠を渡されて出家を勧められる場面を描く。この後、絶望した知盛が巨大な碇を体にまきつけて海に身を投げる(展示№23)。展示№22は、天保3年(1832)の役者評判記。展示箇所は、前年7月に江戸の中村座で「銀平実は知盛」役を演じた二代目関三十郎評。「渡海や銀平は大出来大当り 分て知盛となり物がたりの所宜しく 大物の浦まで申分なし」と記されている。
 鮓屋の段では、吉野ですし屋を営む弥左衛門が、平惟盛<これもり>を下男弥助としてかくまっている。日頃の悪行から勘当の身となっている弥左衛門の息子権太は弥助の正体を知り、惟盛詮議のためにやってきた梶原景時<かげとき>に惟盛の首と、惟盛の妻子を引き渡してしまう。展示№24は、景時から権太に褒美の陣羽織が渡され、弥助と恋仲の権太の妹お里がそれを見ている場面である。権太の行動に激怒した弥左衛門は権太を刺し殺すが、実は全て惟盛を助けようとした権太の策略で、惟盛の首は偽物、若葉内侍と六代君も権太の妻とその息子であった。権太の最期を眼前にした惟盛は、全ての未練を断ち切って出家の道を選ぶ。

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