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歌舞伎と劇場
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歌舞伎の劇場
現代でも「芝居小屋」と呼ばれる歌舞伎の劇場は、慶長8年(1603)に出雲の阿国<おくに>が始めたかぶき踊り以来、神社の境内や河原に仮設の外囲いを設けただけの、大衆観客席に屋根もない状態の小屋であった。歌舞伎が演劇として大きな発達を遂げる元禄期(1688-1704)になっても大衆席に屋根はなく、劇場全体に屋根が設けられ、大衆席を貫く花道が常設されるようになるのは享保末期(1730年代)以降のことである。歌舞伎の舞台も、能舞台の様式を踏襲して破風造<はふづくり>であったが、寛政期(1789-1801)以降には破風がなくなり、舞台自体も劇空間を広げるために拡張され、現在の舞台に近づいていく。
時期によって異なるが、幕府が歌舞伎芝居の興行を許可したのは、江戸は中村座・市村座・森田座の三座、大坂は角之芝居と中之芝居の二座、京都は北側芝居と南側芝居の二座だけで、官許を持たない劇場と区別するために、これらの劇場は大芝居と呼ばれていた。官許を得ると劇場正面の屋根に櫓<やぐら>を上げる事が許され、櫓幕<やぐらまく>に覆われた櫓は興行権の象徴となり、現在の南座にもその名残を見る事ができる。
歌舞伎の劇場は舞台を挟んで表と裏に区分され、表方<おもてかた>が劇場の経営や実務の管理、裏方が楽屋をはじめとする幕内の管理を行っていた。一般の観客にとって目にする事ができるのは、幟や看板、贔屓からの贈り物を高く積み上げた積物などで飾り立てられた劇場前と、鼠木戸<ねずみきど>と呼ばれる狭い劇場の入り口を通って目にする舞台と観客席だけであり、舞台裏や楽屋に入る事は基本的に許されなかった。
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