茶屋四郎二郎

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ちゃやしろじろう


画題

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解説

東洋画題綜覧

海外貿易の先駆者、小笠原豊後守明延の子で、清延といふ、三河国岡崎城主徳川清康に仕へ、永禄中、家康に近侍し戦陣に出づること五十三回、殊に三方ケ原の合戦に功あり、家康浜松に軍を犒ひ清延の功を賞して自ら橘を執り之を授けて曰く『橘はこれ祥瑞、以て汝の家紋とせよ』と此時から三梶の葉を改めて橘とした、天正十年家康織田信長の招に応じて近江安土に到り尋で上洛泉州堺に遊ぶや、清延また之に従ふ、信長また踵いで上洛し、忽ち本能寺の変に逢つた、此の時清延は家康の命で信長の許へ使したが、変を聞て馳せ帰り河内の枚方で本多忠勝に出逢ひ相謀つて家康に飯盛山辺で謁し帰国の事に決し、伊賀路から伊勢を経て三河に入らうとした、此の時清延は道々に銀を散じ、所在の土民に案内せしめて恙なく岡崎に帰るを得た、十二年長久手の役には家康の乗馬に跨つて一騎を仆し虎皮の鞍覆を戦場に落したが悠々と之を探して帰陣し、その豪胆に舌を巻かしめた、後、京都に帰り新町百足屋町に住し、徳川氏の呉服用達となり家康上洛の時は常に、これに仕へた、秀吉と講和の後は清延を以て桃山の使者たらしめた、十八年には北条氏討伐に従ひ功あり、家康関八州を領するに及び、清延の功を賞して江州守山の代官たらしめやうとしたが辞し、後、豊臣秀吉の朱印状を得て安南貿易に従事したが慶長元年七月歿した、年五十五。  (朱印船貿易史)

これを画いた作

坂内青嵐筆  『茶屋四郎二郎』  第八回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)