須磨

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すま


画題

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解説

画題辞典

一。須磨は摂津の海浦にして、白砂青松連り、風光明媚の勝地として、古くより名ある地なり、古来名所絵として画かるゝ所多し。二。源氏物語の一条に須磨の巻あり、源氏の君の須磨に赴かるゝことを叙せり、源氏絵として画くもの数々多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

(一)摂津の名勝、大阪湾を距てて淡路島を眺め背後には翠緑の山脈を控へ、海岸は文字通りの白砂青松で、風光明媚、附近の舞子明石と共に四季を通じ清遊するもの多く、須磨寺には青葉の笛をはじめ敦盛の遺物といふものを伝へ、近く一の谷古戦場あり、綱敷天神、松風村雨堂、須磨の関址、敦盛塚などがあり、古歌にも

須磨の浦に鶴の呼このある時はこれや千代へんものとやは見る  柿本人麿

ひさかたの月まつ鐘のいそまくらかくて年ふるすまの浦人    如願法師

などがあり、古来名所絵としてよく画かれる。

狩野常信筆  中山貞市氏旧蔵

(二)『源氏物語』の中の一、光源氏廿五歳の三月から、廿六歳の春までの事を記す、光源氏は朧月夜との仲など漸く人の口の端に上つて都にも居にくくなつたので、暫くの間を須磨に暮らすことゝなつた、それには弘徽殿太后の譫言もあつた、かくて紫上とも別れて秋のあはれを須磨の浦にしみ/゙\と喞つ、その巻のはじめに曰

かの須磨は昔こそ人の住処などもありけれ、今はいと里ばなれ心すごくて、海士の家だに稀になど聞き給へど、人しげくひたたけたらん住居は、いとほひなかるべし、さりとて都をとほざからんも、故里おぼつかなかるべきを、人わろくぞおぼしみだるる、万の事来しかた行くすゑ思ひ続け給ふに、悲しき事いとさま/゙\なり。

『須磨』は源氏絵の一部として画かれてゐるが、独立したものはあまり見ない。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)