藤原蔵下麻呂

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ふじわらの くらじまろ


画題

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解説

前賢故実

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式部卿馬養の第九子。宝字八年九月、恵美押勝(藤原仲麻呂)が反逆を起こして、太政官印を持出し挙兵のため近江へ向かった。仲麻呂は息子の朝獦、真光らと一緒に宇治から近江へ入ろうと思ったが、山城守日下部子麻呂が、衛門少尉佐伯伊多智とともに田原道経由で近江国に入り勢多橋を焼き払ったため、驚いた仲麻呂らは高島郡へ逃走した。伊多智は越前に馳せ急ぎ、まだ事変を知らぬ辛加知を斬り殺した。これを知らなかった仲麻呂は、塩焼王を天皇に擁立し、息子の朝獦らに三品を与えた。また、精兵を遣わして愛発関を攻めたが、授刀物部広成らに敗れてしまった。仲麻呂は、船で塩津へ向かったが逆風に遭い断念、さらに山道を使って愛発関へ行ったが、伊多智に撃退され、三尾崎へ退却した。討伐軍側の佐伯三野や大野真本らが、仲麻呂軍と三尾崎で正午頃より午後四時頃まで苦戦を続けていたとき、蔵下麻呂の援軍が到着した。すると、真光が敗走、三野らは勝ちに乗じて追撃、多くの敵軍を殺傷した。仲麻呂は仕方なく乗船して逃走。蔵下麻呂は水陸両路からこれを追撃、仲麻呂軍を総崩れに追い込んだ。湖上に漂う仲麻呂とその妻子の船を拿捕した軍士石村石楯は、仲麻呂を斬り殺した。仲麻呂の妻子および数百人の残党は、皆誅殺された。凱旋した蔵下麻呂は、この功績により従五位上を授けられた。伊多智、石楯らも昇進できた。蔵下麻呂は参議従三位勲二等まで昇叙され、宝亀六年に亡くなった。享年四十二歳。

(『前賢故実』)