瑠璃太子

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 20:07時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

るりたいし


画題

画像(Open)


解説

東洋画題綜覧

中印度の憍薩羅国王、波斯匿王の太子である、この太子王位に即いて、瑠璃王と称するや、釈尊の晩年兵を起して迦毘羅衛城を攻めて、五百の釈迦族を殺屠した虐事を行つたことがあり、如何なる名族聖賢にも宿業は免るゝことが出来ない実例に引用される故事である。  (仏教辞林)

昔天竺に波斯匿王と申しける小国の王、浄飯王の婿にならんと請ふ、浄飯王御心には嫌はしく思召しながら、辞するに詞やなかりけん召仕はれける、夫人の中に貌形無殊類勝れたるを撰びて是を第三の姫君と名づけ給ひて波斯匿王の后にぞなされける、やがて此后の御腹に一人の皇子出来させ給ふ、是を瑠璃太子とぞ申しける、七歳にならせ給ひける年、浄飯王の城へおはして遊ばれけるが、浄飯王の同じ床にぞ座し給ひたりける、釈氏の諸王大臣是を見て、瑠璃太子は是実の御孫にはあらず、何故にか大王と同位に座し給ふべきとて、則ち王の床の上より追ひ下し奉る、瑠璃太子少き心にも、不安事に思召しければ、我年長ぜば、必ず釈氏を滅して此恥を濯ぐべしと深く悪念をぞ起されける、さて二十余年を経て後、瑠璃太子長となり浄飯王は崩御なりしかば、瑠璃太子三百万騎の勢を率して、摩竭陀国の城へ寄せ給ふ。  (太平記三十五)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)