景清

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かげきよ


画題

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解説

画題辞典

平景清は平家の侍大将にして、忠清が次子なり、世に悪七兵衛と呼ぶ。武略あり膂力あり、屋島の役、源氏の士箕尾谷四郎国俊と戦い、手取りにせんと国俊が兜錣を掴みて之を引き、遂に錣を断ちたるは最も世に知られたる談柄なり。景清が事、後世、武士の典型として、謡曲に、能樂に、戯曲に演劇に、将た童話に、種々に伝えられて、最も人口に膾炙す。謡曲にある「景清」の一曲は、さしも忠勇無雙の悪七兵衛も平家歿落の後零落して目さえ盲いて、名も日向の勾当と改め、乞食のさまになりしを、人丸という娘の尋ね来りて強いて面会を求むるに会し、懐旧の想に得堪えず屋島の思出とも語る勇士の末路を写せるものなり。戯曲演劇に表われたる景清は、平家滅亡の後、千辛万苦して頼朝を刺さんと窺い、或は番匠となり或は乞食となり、頼朝が大仏参詣を要せんとする一条、又囚われて、土牢に幽せらるゝ一条、牢破りの一条、情を通ぜる五条阪の遊君阿古屋との関係、それと関連して秩父重忠が情理二つながら備わる挙作。又は盲目となりし後の事、或はその亡霊となりて尚、源氏を呪わんとする事など、多種多様に亙りて描出せらる。随って景清が多種多様の生涯は、或は歴史画として或は教訓画として又に浮世絵として又芝居絵として画かるゝ所多種多様なり、

画像に鎌倉海蔵寺にあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

平家の侍大将、通称上総の七郎兵衛、伯父大日坊を殺したので悪七兵衛と呼ばれた、源平合戦に屡々勇名を轟かしたこと源平盛衰記や、平家物語に現はれてゐるが、一貫した伝は伝はつてゐない、屋島の戦に美尾谷十郎と兜の錣を引き合つたこと、世に錣引として名高く、東大寺再建に当り、頼朝を刺さうとして予譲の故事に倣つたことは伝説として名高い、平氏亡びて後、鎌倉に来り、和田義盛に預けられたが、その不遜を憤つて義盛が之を断つたので、更に八田知家に預けられたが、以来湯水を断ち大仏供養の日を待つて死んだといふ、その伝説が歌舞伎狂言となつてさま/゙\に行はれてゐる、その悪七兵衛の名に就いては、『梅村載筆』に

景清平族滅後、逃摂州水田邑匿伯父大日房僧能忍所、能忍欲為買酒、私語侍者令往買酒、景清疑耳語囁々而以為自已於吏即抜刀刺斃能忍而犇、世憎殺其伯父、号悪七兵衛矣。

景清は謡曲にもあり、劇にもいろ/\脚色されてゐるので、その方で作品はあるが歴史画としては余り扱はれてゐない。

鳥居清満筆  (重要美術)      三原繁吉氏蔵

勝川春章筆  『二代高麗蔵の景清』  松木喜八郎氏蔵

春朗筆    『市川鰕蔵の景清』   執行弘道氏蔵

春好筆    『解脱の景清』     所持者不明

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


のうめん「能面」及かぶきじゅうはちばん「歌舞伎十八番」の項を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


歌舞伎十八番) 悪七兵衛景清の狂言は沢山あるが、歌舞伎十八番の景清は牢破りの景清で元文四年七月二代目団十郎が、破り景清で当りを取つたのに胚胎して十八番中に加へられた。(歌舞伎細見)

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)


能面)『景清』一番にのみ著る、世に背き拗ねたる盲目が肌は骨あらはに衰へた有様を刻す粗髯あるも無もある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)