役小角

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えんのおづぬ


画題

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解説

画題辞典

「えんのぎやうじう」(役行者)を見よ。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

修験道の開祖、大和国茅原の人、賀茂役公と云ふ、開化天皇の皇子彦坐命から出た、舒明天皇の六年生る、幼にして学を好み三宝を信仰す、世にいふ弱年生駒山に登り苦行し尋で紀伊熊野山中に入て荊棘を開拓し、三十二歳葛城山に登り岩窟の中に孔雀明王の像を安置し其の神呪を読誦して秘密を修行すること三十年、奇異の験術を証得して鬼神を使役したと云ふ、三十年間岩窟の中に棲居して草衣木食を以て苦行を積んだことは到底常人の企て及ぶ処でない、大和の南部から紀伊に亘る高山大嶽の踏開は概ね小角の功にして吉野の金峰山大峰山等の険岨は神呪を読誦しながら攀躋した処である、又高野山、牛滝山は空海の開いた処であるが初めは皆小角の足跡であり神峰山、本山、箕面山等亦共の踏開にかゝる、後葛城山を出で弟子を従へて神呪を誦読しながら近畿諸国を巡歴した、然るに文武天皇三年五月、世俗を誑惑するものとして伊豆大島に流さる、然るに古伝には小角が葛城山から金峰山に至る橋梁を架せんとして葛城山の一言主命の神意に契はず遂に配流されたのであると伝ふ。だが実は従五位下韓国連広足が其弟子となり賢能を嫉んで讒訴したもので捕吏が小角を捕へんとして先其母を獄に下したので小角自ら来つて捕はれたのであるといふ、伊豆にあつても昼は出ずして母に奉侍し夜は逃れて富士山に登り苦行を積んだといふ、富士山の踏開は行者を以て嚆矢とする、大宝元年赦されて京に帰り、更に豊前に赴き英彦山を踏開した、古伝には母を鉄鉢に載せて唐に渡つたともいふ、元より信ずるに足らず、豊前地方で生を終つたものらしい、寛政十一年正月勅して神変大菩薩の諡号を賜ふ。  (大日本人名辞書)

役行者の事跡は幽玄味に富み変化が多いのでよく画材になるが、古く京都聖護院に伝教大師筆の画像があり、冷泉為恭にもその画像がある。近年の作としては左の諸点がある。

松本楓湖筆  『役小角渡唐』  第四回文展出品

安田靫彦筆  『役優婆塞』   新帝展一回出品

川端竜子筆  『神変大菩薩』  第十五回院展出品

岩田正巳筆  『役小角』    第十三回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)