平重衡

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たいらの しげひら


画題

画像(Open)


解説

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平重衡は清盛の子にして、知盛の弟である、応保二年従五位に叙せられ、尋で尾張守となり、左馬頭に進んだ、治承三年には更に左中将となる、四年五月、源頼政、以仁王を奉じて兵を挙ぐるや、兄の知盛等と共に之を討て破り、十二月には南都の東大興福二寺が頼政に加担したのを責めて之を焼き、養和元年三月には維盛と共に源行家を尾張の洲股に破つた、尋で左中将に任じ従三位に叙せらる、寿永二年宗盛、安徳天皇を奉じて屋島に至り、山陽南海の地を探る、閏十月源義仲の部将高梨高信・足利義清・海野幸広・仁科盛家を遺して平家を討つや、重衡備中の水島に之を拒ぎ大に敵を敗り、行家を播磨の室山に敗つた、寿永三年源範頼義経一の谷を陥るゝや重衡生田の森を死守したが遂に敗れ、須磨の浦で荘長家の為めに捕はれて京都に送られ、土肥実平の家に拘禁の身となつた、後白河法皇、重衡に命じ、宗盛に三種神器を上るやうに諭さしめ給ふ、重衡書を屋島の宗盛に送つて之を説いたが宗盛これに従はず、遂に一門壇の浦に亡びてしまつた、平家滅亡後、頼朝は重衡を鎌倉に迎ヘ、侍女千手の前を遣はし、又工藤祐経等をして款待これ努めた、一日祐経をうち、千手琵琶を弾じ、重衡また笛を吹いて五常楽を奏したが、自からこれを後生楽といひ、また次で皇麞楽を奏し、これを往生楽だといつて、自から死期の近くを知るものゝ如くであつた、夜闌にして宴罷むの後、千手をとゞめて酒を酌み一曲を朗詠した、『灯暗数行虞氏涙、夜深四面楚歌声』と、翌年六月、頼朝は奈良に重衡を送つた、東大興福のニ寺の乞からである、そして木津川に斬られた、年二十九、僧徒共その首を梟して、往年焼討の怨に報いた、その重衡酒宴の一節を源平盛衰記から引く。

纐纈の袋に入たる琵琶一面、錦の袋に入たる琴一挺、女の前に置たり、中将琵琶を取寄見給ふ、女柱立て弾たりけり、中将宣ひけるは、只今あそばす楽をば五章楽とこそ申習はして侍れども、重衡が耳には後生楽とこそ聞侍れ、往生の急つげんとて、てんじゆねぢつつ妙音院殿の口伝の御弟子にて御座せば、皇麞の急、撥音気高弾らる、楽二三返弾じ給ひて同じくは一声と勧め給へば、女承はりて一樹の陰に宿り一河の流を汲人も、先世の宿縁也と云、契の白拍子を、一時かすへ澄したりけるが、夜は深更になりぬ、人は鳴を静たりければ、徐までも耳目を驚し、袂を絞計なり、懸りければ人々是を見奉らんとて、障子を細目にあけたる間より、風吹入て前の灯消にけり、狩野介、星灯参らせよと申しけるに、中将、爪調べして

灯暗数行虞氏涙。夜深四面楚歌声。

と云ふ朗詠を二三返し給ひけり、夜明にければ女暇給て帰りぬ、中将人を召て、夜部の女は如何なる者ぞと尋給けれは、白川宿長者の娘、千手前とて今年二十に罷成、当時は鎌倉殿のきに入にて御気色よき女房也とぞ申しける。  (源平盛衰記三九)

重衡の生涯はかく波瀾重畳なので、歴史画としても好画題として屡々描かる。

山川永雅筆  『転変』     第二回文展出品

伊東紅雲筆  『重衡』     第五回文展出品

植中直斎筆  『無間業』    第十回帝展出品

川船水棹筆  『都人と重衡』  第九回文展出品

槙戸観海筆  『重衡』     第九回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)