小野道風

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おのゝとうふう


画題

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解説

画題辞典

小野道風は小野篁の孫にして、父を葛絃という。平安朝に出て、醍醐、朱雀、村上の三朝に歴仕し、正四位下内蔵頭に至る。最も書を能くす、特に草書に巧にして遒勁神逸古今に絶す、醍醐天皇最もその書を愛し、醍醐寺の榜を書せしむ。その他殿壁題字宮門扁額等その筆に成るもの極めて多し。康保三年七十一を以て卒す。世に藤原佐理、藤原行成と共に並称せられて三跡といわる。

その像、頼寿法橋写す所のものは御物にして貴珍の画と推すべく。小野挙時画く所の紺紙金泥の一幅は藤原期の作品にて益田男爵所蔵なり。又俗説に、道風の書を学ぶに、降雨の時蛙の柳に飛びつかんとして百折して尚、屈せざるを見て感奮し、事に当りしということ伝えらるゝを以て、後世之を以て画題とすること亦甚だ多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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生まれつき書に秀でて、筆勢が雄勁であり、書道家として古今に冠たる。醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇に仕えていた。正四位下、内蔵権頭にまで昇った。宮殿の壁の題字や宮殿の門の扁額は、道風が書いたものが多い。晩年、中風を患い、手が震えてしまった。道風の書はすべて俗離れして素晴らしい形態を有している。かつては橘直幹の上書を書写したことがあり、その上書は村上天皇に珍重され、常に帝の側に置かれていた。宮殿に失火があった時、帝は左右を見廻し「直幹の上書は無事だったか」と聞いたが、ほかの物に言及していなかった。道風が書写したものは、一行或は一文字であっても、人々が競い合ってその書を求めた。世に珍重されていた程度は尋常でなかった。

紫宸殿之皇居、七回書賢聖之障子。大嘗会之宝祚、両度黷画図之屏風。

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

名書家、太宰大弐葛弦の子、好古の弟、書をよくして遒勁神逸今古に冠絶す、醍醐朱雀村上の三朝に歴仕し、正四位下内蔵権頭に至る、醍醐帝は甚だ其の書を愛し醍醐寺を造るに及び道風に命じて榜を書せしめた、一は楷、一は草、初め楷書を南門に掲ぐるに擬し終を草書とした、道風大に喜び曰く嗚呼賢主なる哉と、蓋し道風の得意は草書にあつたからである、又行草の法帖各々一巻を書せしめ僧寛建をして之を唐に持ち往かしめた、それは道風の技を彼の国に伝へんとしたのである、此の外殿堂の題字や宮門の扁榜など書ける処多い、晩年中風を患ひ手顫えて筆勢やゝ奇体を生じた、嘗て橘直幹の為め奏疏を書す、村上天皇常にこれを座側に置かせ給うた、会々禁中に火あり、帝左右を顧み給うて曰く直幹の疏は存するかと、以て如何にその筆跡を愛鑑在したかを知ることが出来る、康保三年卒す、年七十一、後世道風、藤原佐理、藤原行成を称して三跡と曰ふ、又画をよくし多武峰護国院に大織冠の神像、高野山小坂坊の勢至はその描くところのものといふ。  (大日本史)

俗説にいふ小野道風初めは無筆、学べども成らず、偶々の枝に攀ぢんとして幾度か跳躍し落つれども更に屈せず遂にこれに登るを得たのを見、発奮して遂に書道の蘊奥を極めたと、此の俗説を取入れた戯曲に『小野道風青柳硯』がある。

なほその画像は『集古十種』に載せられてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)