天智天皇

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てんじてんのう


画題

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解説

東洋画題綜覧

第三十八代の天皇、初め葛城皇子と称せられ一の御名は中大兄、舒明天皇の嫡子に在し、皇極天皇の生ませたまふ所、天皇常に蘇我入鹿の専横を憎み給ひ、潜かに中臣鎌足と共に之を除かんと図り、その計に従ひ蘇我石川麿の女を納れ援とし、鎌足また佐伯子麿、葛城稚犬養綱田を薦め計に与らしむ、皇極天皇の四年六月、三韓進貢す、天皇大極殿に御し、入鹿また朝服して入る、天皇予め石川麿に命じて三韓の表を読み、その中に子麿、綱田は入鹿を斬ることに定めさせられた、天皇先づ門府を衛らしめ十二通門を鎖し、親ら長槍を執て殿側に立たせられ、鎌足弓矢を持つて侍す、時に石川麿表丈を読み将に終らんとするので、鎌足は子麿を促がしたが子麿畏縮して発せず、石川麿また戦慄し、背に汗して湿ふ、入鹿怪しみ之を問へば、天威咫尺覚えずここに及ぶと、天皇その機を逸せんことを恐れ、咄嗟に入て入鹿を撃ち其の頭眉に中つ、子麿等続いて入り剣を揮ひ入鹿を斬る、入鹿御座に攀ぢて臣に何の罪かある天鑑を垂れさせ給へと奏す、皇極天皇、入鹿の罪を問はせ給ふ、天皇地に伏し奏して曰く、鞍作尽く皇族を滅ぼし特に天位を傾けんとす、豈に鞍作をもて天位に易ふべけんやと、天皇起つて入御あり、子麿遂に入鹿を誅す、入鹿はかくて誅に伏すと雖も其父蝦夷あり、漢直等其徒を率ひ蝦夷を助けんとしたので、天皇、将軍巨勢徳太古をして諭すに順逆を以てす、賊徒等戈を投じて潰散し、蝦夷また誅に伏した、こゝに於て天下安泰となり、皇極天皇は、御位を天皇に譲り給はんとす、天皇鎌足の言に従つて密かに孝徳天皇に譲る、天皇之を嘉し給ひ御位を孝徳天皇に伝へ、天皇を皇太子とし朝政を匡輔せさせ給ふ、七年七月、孝徳天皇朝倉の行宮に崩御せらる此に於て天皇、御位に即かせ給ふ、時に御年四十三、天皇学を好み文をよくせられ、治体に明通する秀才を召され五体を定め百度を興し、また群臣に命じて令二十二巻を撰ばしめたまふ、之を近江朝の令といふ、四年十二月三日近江宮に崩御御年四十六、追諡して天智天皇と称し奉る。  (大日本史)

天皇の鎌足と相知るに至り給うたのは、法興寺の打鞠の時からで、『水鏡』には

三年三月天智天皇未だ中大兄皇子と申しし時、法興寺にて御鞠をあそばし給ひし程に御沓の鞠につきて落ち侍りしを、鎌足之をとりて奉り給へりしかば、皇子うれしきことに思しつゝ、その時よりぞ相互に思すこと露へだてなく聞えあはせ奉り給ひぬ、その御末のけふまでも帝の御後見はし給ふぞかし

と記している。

此の法興寺の御鞠のことは、これまで屡々画かれて、古く土佐長隆筆があり、近くは左の作がある。

小泉勝爾筆  『中大兄皇子と中臣鎌足』  東京府養正館壁画

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)