商山四皓

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しょうざんしこう


画題

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解説

画題辞典

秦の始皇帝の時、国難を避けて商山に入りし隠士四人にして、東園公、綺里季、夏黄公、角里先生是なり、髪眉皓白の故に四皓と称す。東園公、姓は唐、字を宣明という、夏黄公、姓は廣、名は黄、角里先生は周術という、皆漢の世となるに及び、義、漢の臣とならず、高祖大に之を高しとし屡招けども到らず、高祖に寵姫威夫人あり、趙王如意を生む、会々上盈太子仁弱なりしを以て、之を廃し如意を以て之に替へんとす、太子の生母呂后之を憂ひ、張良に謀る、張良即ちこの四隠士を誘うて太子に侍せしむ、高祖之を見て驚きて問うて曰く、吾れ公を求むる歳あり、公我を避逃す、今児に侍す如何と、四人曰く陛下士を軽んじ善く罵る、今太子は即ち仁孝恭敬、士を愛するを聞く、故に臣等来ると、高祖遂に太子を廃する能はずという。之を画材としては四皓世事に離れ山中に囲碁するを採るものあり、又張良に導かれて上盈太子に謁するの図を画くものあり、名品多き中にて、

雪舟筆(池田侯爵所裁)、

龍杏筆(京都大仙院所蔵)、

狩野光信筆(近衛公爵所蔵)、

海北友松筆襖絵(京都妙心寺所蔵)、

松花堂筆(松平伯爵所蔵)、

狩野探幽筆床貼付(京都西本願寺所蔵)、

長谷川等伯筆襖貼付四面(京都真珠庵所蔵国宝)、

狩野探幽筆中観音左右四皓七賢(黒田侯爵蔵)、

法隆寺舎利殿屏風等知られたり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

秦の始皇帝の時、国難を避けて商山に匿れた四人の老高士のこと、四皓とは鬚眉皓白、故にこれを四皓といふ、その四人は、東園公、綺里季、夏黄公、甪里先生で、漢高祖その名を聞き招聘したが応ぜず、偶々高祖の寵妃戚夫人が上盈太子を廃して自が産んだ趙王如意を立てやうとしたので、太子の生母呂后が之を悲しみ張良を召して之を謀る、張良即ち商山に四皓を訪ひ其出廬を促したこと、史記留僕世家、前漢書にあり、又、『塵添壒囊鈔』に記す処精しい、左に之を引く。

四皓と云ふは皆皓の字を付くる名歟、非爾には、皓は皜の字也、又は皞共書く、皜は胡老の友、白色也と釈せり、四人共に年老いて白髪なる故に是れを四皓と云ふ也、譬へば秦の世の乱を遁れて商洛山に隠れ居るなり、仍商山の四皓といふ、其の名、園公、甪里先生、綺里季、夏黄公也、漢の世に出仕ふる故に漢の四皓と云ふ、高祖の嫡男恵帝を太子と定め給ふと云へ共、愛する戚夫人が子趙王如意をいとほしみて恵帝を捨て如意を太子とせんとし給ひしに、恵帝の母呂后驚きて張良に云ひ合せ給ふに、張良申して曰く是れゆゝしき大事也、但高祖の召仕はいやと思食す者四人ありと云へ共、高祖の御心余りに侈りて人をあなどり給ふ故に漢の臣たらじとて未だ商山に隠居し侍べり、此の事をいみじく口惜く思食せ共不叶して年を経たり、所詮彼等を何にもして召出して太子の輔佐の臣とし給はゞ、君も動し給はじと申しければ呂后兎角して招き寄びて太子に付給へり、其の後高祖宴会し給ひけるに太子出給ふ時、彼の四人伴にありければ、奇みてあれは何人ぞと問ひ給ふに各其の名を謁りけり、其の時高祖大に驚きて我汝を求むる事年久し、何ぞ今我子の賎きに出仕ふると、四皓が申さく、君は人をあなどり給ふ故に不仕、太子は其の性穏にして人生の機に足り給へり、然れば率土の皇民皆以て太子の御為には一命を軽くすべしと承る間、我等も参り仕ふと申しければ、高祖戚夫人に向ひて、彼の四人已に太子を輔佐す、羽翼更に動じ難しとて、恵帝に定りければ、戚夫人涙を流すと云へり、是れ併しながら張良が計ごとに出たり。  (塵添壒囊鈔五)

四皓の商山にあつて棋を囲む図や、張良の之に謁するの図などよく画かる。

狩野元信筆        帝室御物

海北友松筆 (国宝)   京都妙心寺蔵

雪舟筆   (三幅対)  因州池田家旧蔵

狩野探幽筆        京都西本願寺蔵

狩野光信筆        近衛侯爵家蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)