六祖

提供: ArtWiki
2021年12月7日 (火) 18:48時点におけるWikiSysop (トーク | 投稿記録)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

ろくそ


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

六祀は禪宗第六祖のことにして慧能なり、慧能支那南海新興の人、俗姓は廬氏、南宗禪の祖なり、通例六祖として知らる、幼にして至孝、家貧なるを以て母の為めに市に出て柴を鬻くを常としけるが、一日客の経を誦するを聞きて開悟する所あり、母に請うて家を辞し、遠く黄梅縣に赴きて、破頭山に於て禪宗の第五祖弘忍に謁す、弘忍慧能の機を見たりと雖も憚る所あり、嶺南の人佛性を有せず何ぞ作佛あらんと叱呵し碓坊に入らしむ、慧能晝夜怠らず杵臼の間に労する八ケ月に及ぶといふ、或時弘忍學徒を集めて意に随つて見解を述べしむ、上首に神秀あり、内外の學に通ず、窃に師の衣鉢を得んとし、夜廊壁に一偈を書し、以て師の批評を俟つ、 身是菩提樹、心如明鏡臺、時々勤拂拭、莫遣有塵埃、慧能時に碓坊にあり、窃にその傍に一偈を書す、曰く 菩提本非樹、明鏡亦非臺、本来無一物、何假拂塵挨、是れ南頓北漸兩禪の分岐せし因なり、弘忍慧能が偈を見て默會し窃に衣法を付せりといふ、慧能師命により衆の嫉を避けて南方に走り,化を南方に布き曹渓に入り、先天元年七十六歳を以て寂す、其の臼杵の事に従ふの図は、六祖と題して古来和漢画家の最も好んで筆する所となす。梁楷筆(洒井伯爵所蔵) 梁指筆(松平伯爵所蔵)宗淵筆(東京美術摯校所蔵)土佐光起箋(山城天龍寺中三秀院所蔵)近代作家の筆亦甚だ多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

禅六祖は慧能大師である、南宗禅の祖で、『伝灯録』第三には

咸享中有一居士、姓盧名慧能、自新州来参謁、師問曰、汝自何来、曰嶺南、師曰、欲須何事、曰唯求作仏、師曰、嶺南人無仏性、若為得仏、曰人即有南北仏性豈然、師知是異人、乃訶曰、著槽廠去能礼足而退、便入碓坊、服労於杵臼之間、昼夜不息。

と、此の師といふのは五祖弘忍大師のことである、同書五に曰く

第三十三祖慧能大師者、姓盧氏、其先范陽人、父行瑫武徳中左官于南海之新州、遂占籍焉、三歳喪父、其母守志鞠養、及長家尤貧寠、師樵采以給、一日負薪至市中、聞客読金剛経云々、衰州蒙山道明禅師者、鄱陽人、陳宣帝之裔孫也、国亡落於民間以其王孫嘗受署因有将軍之号、少於永昌寺出家慕道頗切、往依五祖法会極意研尋、初無解悟、及聞五祖密付衣法、与盧行者、即率同意数十人、躡跡追逐至大庾嶺、師最先見余輩来及、盧行者見師奔至、即擲衣鉢磐石曰、此衣表信可力争耶、任君将去、師遂挙之如山不動、踟蹰慄慄乃曰、我来求法非為衣也、願行者開示於我、祖曰、不思善不思悪正恁麼、時阿那箇是明上坐本来面目、師当下大悟徧体汗流。

と、その臼杵を取るの図は、『六祖調心』と題してよく画かる。

梁楷筆            酒井伯爵家蔵

宗淵筆            東京美術学校蔵

土佐光起筆          山城三秀院蔵

卒翁     『六祖挟担』  川崎男爵家旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)