八瀬
やせ
画題
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解説
東洋画題綜覧
洛北の名邑、或は矢背に作る、大原と並び称せられ、この住民は世々禁宮に出入して行幸の時には駕輿丁を勤仕し今代に至る、村民の説に延元の兵乱に、後醍醐帝比叡山行幸の時にも警護し奉つて山門に入ると、来由詳ならず、又野府記云『八瀬村者、西塔下、埴河東』と、埴河即ち高野川で、八瀬川とも詠むで居る。 (大日本地名辞書)
春さめのふりはへてゆく人よりは我立つつまに八瀬の川芹 (新撰六帖)
八瀬川の瀬々の井堰にせきとめて水引かくる小野の苗代 (夫木集)
これを画けるものに、富田渓仙筆『八瀬の春』(第八回院展出品)がある。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)