藤原師輔

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ふじわらの もろすけ


画題

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解説

前賢故実

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性格が寛大で民を大切にしていた。右大臣、正二位であった。天慶の乱の時、朝廷が藤原忠文を征東将軍に任命し征伐へ行かせたが、接戦する前に賊が誅された。のち朝廷では忠文の賞与について論じられ、臣下たちが忠文にも賞与を与えるべきだと話していたが、時の関白で師輔の兄の実頼は、「忠文には功がないので、賞すべきではない」と主張した。これに対して、師輔は「賞を与えるべきかが疑われた時こそ、賞与のことが重要だ。忠文が命を奉じて京都から出征したので、労がないとは言えない。故に賞を与えるべきだ。」と指摘した。実頼が自分の考えに固執した。世論は師輔の発言こそが長者の言葉だとした。師輔は五十三歳で亡くなり、世間では九条殿と呼ばれていた。子孫を訓誡するための遺訓書は、後世に伝わっている。

露ならぬ 我身とおもへど 秋のよを かくこそあかせ おきゐながらに

(『前賢故実』)