巨勢金岡

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こせの かなおか


画題

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解説

前賢故実

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貞観中、神泉苑監を務めていた。絵画に秀でて、当時では最も優れた絵師だと言えよう。元慶四年、先聖や先師を祭る釈奠において、金岡は先聖や先師の肖像を描いた。その時の絵は歴代の朝廷に使われていた。宇多天皇が源直方、藤原興基らを遣わして、弘仁以降の詩にすぐれた日本の儒者を選ばせ、御所の南びさしの東西障子に儒者たちの肖像を金岡に描かせた。また、紫宸殿の障子に描かれていた賢人や聖人の絵も金岡の作品だ。金岡が最も長けていた絵は馬の絵だという。金岡には相覧、公望、公忠という三人の息子がいた。公望には深江、深江には弘高、奕世がいて、何れも絵画に優れて家の名声を守っていた。かつては絵を売る者がいて、深江がその者から絵を購入した。弘高が不思議に思わなかったため、深江は「このような原野を描けるか」と弘高に聞いた。弘高は「できない」と答えた。深江はさらに「このような岩石と渓流を描けるか」と聞いた。弘高はやはり「できない」と答えた。すると、深江はゆっくりと「これは叔父の公忠の絵であろう。叔父が必ず絵の裏面に署名を残した。」と話した。絵の裏面を確認すると、やはり公忠の絵だった。後世では絵画のことに言及する者は、巨勢氏を宗家として敬っていた。

(『前賢故実』)