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いんげんぜんじ ---- =画題= ===画像(Open)=== *[http://www.dh-jac.net/db/nishikie/results.php?enter=portal&f85=隠元禅師&-format=resultsp.htm&-max=50&f9=*&f11=1 ARC浮世絵検索システム] *[http://ukiyo-e.org/search?q=隠元禅師 Ukiyo-e.org] *[http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/search.aspx?searchText=隠元禅師 大英博物館Collection_Online] *[http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/search?q=隠元禅師 東京国立博物館] *[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/search/freetext:隠元禅師 文化遺産オンラインDB] *[https://www.google.co.jp/search?q=隠元禅師 Google_Search] *[http://ci.nii.ac.jp/search?q=隠元禅師 CiNii論文検索] *[http://ci.nii.ac.jp/books/search?advanced=false&l=ja&q=隠元禅師 CiNii図書検索] ===解説=== ===画題辞典=== 隠元は本朝黄檗宗の開祖なり。明福州の僧、俗姓は林、名は隆琦、隠元は其の字なり、万暦二十年に生れ、二十九歳の時母を失い、閩中の黄檗山鑑源和尚に投じて僧となり、精修して奥を極め、遂に臨済の正伝を受け、径山寺費隠の後を受く。我が承応元年、将軍家綱禅刹創剏の志あり高僧を支那に求むるや、三年、召に応じて来朝し、将軍に謁し寵遇を受く、寛文元年黄檗山万福寺を山城宇治に開く、後水尾法皇厚く之に帰依し玉う。実に本邦黄檗宗の初なり、延宝元年、大光普照国師の号を賜わり、同年四月三日八十二歳を以て寂す。黄檗語録、隠元法語、詩集等あり、万福寺塔頭松隠堂に僧元規筆画像を伝う。 (『画題辞典』斎藤隆三) [[category:画題|い]] ===東洋画題綜覧=== 隠元禅師は我が国に於ける黄檗宗の始祖、名は隆珂、隠元はその号である、大明福州福清の人、万暦二十年十一月四日を以て生れた、俗姓は林氏、父は徳竜、母は龔氏、八閩の豪族で世々詩書を以て名がある、兄弟三人あつて禅師はその末弟である、六歳の時、父遠く楚に遊んで帰らず、二十歳の時感ずる所あつて仏教を学ばんと志し、諸方に走り、且つ南海の普陀山に登り、観音を拝して父を尋ぬるの願を発し、郷に帰らぬこと久しく、漸く帰郷して母に謁した、母を亡つた後、泰昌九年廿九にして黄檗山に入り剃髪して鑑源禅師に師事し、これより諸方に雲参して大に禅機を究めた、崇禎七年精修その効を収め遂に印可を承けて臨済の正伝を得た、時に年四十三、同十年黄檗山の正統を継ぎ在職七年一山の宗風大に揚がる、後諸処を巡錫し再び黄檗山に住して法門の宣布に努めた、順治十一年、日本興福寺逸然の東渡来化を請ふの誠心に感じ継を慧門に譲り、大眉独湛南源独吼の諸弟子とゝもに長崎に来航した、時に我朝の承応三年七月六日であつた、逸然檀徒と共に之を迎へ、翌年崇福寺に入つた、諸僧雲集して大に法門の玄旨を叩く、明暦元年、摂津富田普門寺の竜渓迎へて寺主とした、碩徳大官の参謁するもの多く、門前常に市を成す、万治元年東上して麟祥院に寓し将軍家綱に謁し、法を老中に説く、同三年山城国宇治大和国の地を賜ひ翌年寺塔を建てた、これが黄檗山万福寺である。 (仏教辞林) 隠元禅師の画像として伝はるものに左の諸作がある。 喜多元規筆 長崎聖福寺蔵 同 宇治松隠堂蔵 心越禅師筆 (隠木即三幅対) 早川千吉郎氏旧蔵 (『東洋画題綜覧』金井紫雲) [[category:画題|い]]
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