高尾

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たかお


画題

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解説

画題辞典

高尾は江戸吉原三浦屋の名妓にして、松の位の太夫として知らる、初代より十一代に至る。初代高尾は世に万治高尾という、万治二年十二月年十九を以つて病歿し、浅草橋場正光院に葬る、塚に楓樹を裁ゑてその表となす。二代高尾は世に塩原高尾と称す、仙亭侯伊達綱宗の通ひて遂に身請せるものとして知らる。「君は今駒形あたり杜鵑、書初めやはづかしながら虚はじめ」の二句は即ち二代高尾が句なり。一説に曰く、二代高尾は彦根藩士石井吉兵衛と情交を密にして、遂にそのために自殺せるものにして、世に石井高尾というもの是なりと、オ色絶世を以つて唄はる。三代高尾、世に西条高尾という、本郷の商店西条某と関係ありたればなり、西条偽印の事に座して罪せらるや、高尾髪を剃つて尼となり、山谷の西方寺に庵を結び、紅葉を栽えて此に居り、八十餘歳にして歿す。五代高尾、元禄宝永に全盛を以て聞えたるものなり、世に駄染高尾という。六世高尾、世に子持高尾という、その所生の子を携へて仲の町を道中し、又客に対せるを以てなり。十世高尾、享保年中榊原式部大輔によりて落籍せらる、故に榊原高尾の名あり。高尾は理想的名妓と称せられし所とて、江戸時代に於ても菱川師宜以下浮世絵に画かるゝもの多し、

水戸徳川侯爵家の旧蔵に岩佐又兵衛の筆と称する薄雲との対幅あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

江戸吉原の名妓で、新吉原京町一丁目三浦屋の抱妓である、元来三浦屋には高尾と名乗るもの多く、既に寛永中にその名は伝へられてゐるが未だ名高くなく、万治高尾に至つて漸く有名となつた、かくて高尾は十数代に至つてゐるわけであるが、その年代等詳かでなく、その後三浦屋も衰微し遂に家は断絶し後玉屋山三郎といふもの三浦屋を再興し、亦高尾と名乗る妓があつたが竟に現はれない、今有名な高尾を伝説に従つて列挙する。

万治高尾、万治二年十二月五日、十九歳で没し浅草橋場正光院中に葬つたが、塚に楓樹を植ゑ目印とすと、この万治高尾を初代とする説もあり、又子持高尾を初代とする説もある。

仙台高尾、野州塩原の生れで承応年中三浦屋の抱となり万治三年高尾を名乗り仙台侯伊達綱宗に落藉され、お椙の方といふ、この事幕府に聞え綱宗は品川の別邸に幽閉され高尾も之に仕へ享保年間七十八歳で歿すと、『君はいま駒形あたりほとゝぎす』『書初やはづかしながら虚はじめ』等の句、人口に膾炙さる。

石井高尾 暦代高尾中最も全盛を極め江州彦根藩士石井吉兵衛に馴染みを重ねたが楼主が他に縁付けやうとしたので自殺す。

西条高尾 江戸本郷四丁目蝋燭問屋西条吉兵衛に請出されたので西条高尾と呼ばれる、高尾一つの盃を所持してゐた、盃には高尾の詠じた歌を高蒔絵で描いてあつたが、これは馴染の客の送つたものといふ。高尾中秋の名月を賞しながら此の盃で酒を飲み、直ちに使を京都島原の名妓吉野にさす、吉野またこれで酒を傾けて大阪の名妓高円にさした、高円飲み終つて再び高尾に返したが、これを名付けて都送りの盃といふと、後、吉兵衛偽印の事で罰せられたので高尾は幇間武兵衛に身を寄せ、後剃髪して浅草山谷の西方寺に庵を結び紅葉を栽ゑて楽しみ八十余歳で没すと。

三九高尾 はね字高尾、又は水谷高尾ともいふ、幕府の御用達水谷庄左衛門に馴染み請出されたが、後、庄左衛門故あつて死刑となり手代九平の妻となつた、書をよくし『ん』の字に巧みであつたので、はね字高尾の称があつた、眼尻があがつて色少しく黒かつたと。

島田高尾 島田重三郎といふものと馴染を重ねたので此の名がある、或は四代目の高尾ともいふ。

駄染高尾 元禄宝永の間全盛を以て聞えた後、神田お玉が池の染物屋の妻となつたので此の名がある、駄染とは下等の染物の意である、俗に紺屋高尾ともいふ。

子持高尾 西国の士と馴染み遂に子までなしたので、子持高尾と呼ばれた、高尾は『これも客に情が厚いから』といつて恥づる色がなかつた、此の西国の士といふのは浅野因幡守との説もある。

六本高尾 享保元文の間に艶名を馳せた、六本といふのは其足の指が六本あつたからで常に足袋を穿いてゐたといふ。

榊原高尾 元文年間に全盛を極めた、享保年中榊原大輔政峰これを愛し千八百両を以て落藉したので世に榊原高尾と呼ばれた、深川浄心寺門番樒売の六郎兵衛が娘といふ、寛政十一年病で死す、年八十四。  (大日本人名辞書)

高尾は名妓の代表的に見られてゐる丈けに絵によく描かれるが、懐月堂安度の作が有名である。又、西村貌庵の『花街漫縁』にも土佐風の高尾の像と手跡とを載せてゐるが、これは解説により島田高尾らしく思はれる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)