釈迦

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しゃか


画題

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解説

仏教の創始者、釈迦牟尼。ゴ―タマ・シッダールタ。紀元前5世紀頃、釈迦族の王子として生れ、結婚して一子をもうけるも、二九才で出家し、三五才で悟を開いた。八〇才で入滅。

仏伝図、苦行の末にやせ...===東洋画題綜覧===

釈迦は梵語シヤークヤで、本来印度迦毘羅伐窣堵国に住した種族の名であるが、この種族の中から出現したので仏教の教祖釈迦牟尼仏を釈迦と略称する、牟尼は釈迦種族の智者の義である、これを古来支那日本の学者は能仁と訳して、この仏の慈悲広大な事を示し、牟尼は寂黙と翻訳して、この仏の智慧深遠なるを示すが故に、釈迦牟尼とは悲智の二徳を顕はす語と解するを例とした、釈迦尊、釈迦如来、釈迦仏、釈迦牟尼仏、釈迦文仏等みな釈尊の異称である。

釈迦は西洋紀元前五百五十八年誕生、同四百七十九年宝寿八十歳をもつて入滅せらる、中印度迦毘羅伐窣堵城王、首頭檀都即浄飯大王を聖父とし、王妃摩訶摩耶を聖母とし、四月八日離宮藍毘尼園の無憂の樹下において誕生した、幼名は悉達多太子、または瞿曇といふ、世に釈尊を瞿曇仏陀と称するのは此故である、天性聡明、広く諸般の教育を受け、これに熟逹す、隣邦拘利城主善覚王の女、耶輸陀羅姫を娶り妃とし一子羅睺羅多を生む、十九歳(或は二十九歳)王城の四門に遊び老病死の状を見、深く人生の無常を感じ、一夜窃かに城を逃れ、深林に入り、出家し南の方毘舎離摩訶陀の諸国に遊んで蓮華仙、跋伽仙、阿藍伽藍仙の諸徳を歴訪し熱心に道を求めて苦修練行十二年、遂に肉体と精神との健全を得て能く大事成弁すべく、苦行は成仏の因でないことを認め断然苦行を捨てゝ尼連禅河に乳糜を取り、仏陀伽耶の勝地菩提樹下、金剛宝座上に静座し、深禅定に入り、一夜暁星正に東天に燦たるのとき、廓然として大悟す、時正に三十歳(一説に三十五歳)これを釈尊の三十成道といふ、成道ののち、波羅奈斯国、鹿野苑に往き阿若憍陳如等の五比丘を度し、王舎城に至るの途次、三迦葉を度し、王舎城に入つては摩掲陀国王、頻婆沙羅、並に舎利弗、目連等を度し、成道後三年郷里迦毘羅伐窣堵に帰つて父王を省し、阿難、難陀、羅睺羅等の親族を度し、爾来恒河の南北、摩掲陀国、憍薩羅国、並に毘舎離国の間を往来し、宝寿八十歳に至るまで、宣教に労し最後に北方拘尸那掲羅城外跋提河の畔、沙羅樹下に臥し諸弟子の諸疑を決し最後の遺誡を示し、中夜寂然として入滅さる。  (仏教辞林)

本朝に存する釈尊の彫刻絵画は種々に描出されてゐるが本尊仏としては、多く寂定相の坐像にして手は大定の印を結ぶを常とする。  (同)

釈迦牟尼仏を画いたもの古来枚挙に遑もない、一体として画くもの、釈迦三尊として文殊普賢と共に描くもの(其項参照)極めて多い、今一体としての作を左に二三列挙する。

国宝釈迦如来像        京都神護寺蔵

同              京都玉林寺蔵

同              近江西教寺蔵

同伝呉道子釈迦三尊の中一幅  京都東福寺蔵

此の外、大和法隆寺壁画西北面の釈迦、京都大徳寺聚光院所蔵元信筆、中釈迦、左右達磨臨済など極めて多い。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)