親鸞

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しんらん


画題

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解説

東洋画題綜覧

親鸞上人は真宗の開祖である、幼名は鶴満麿、一に松若麿といふ、高倉天皇承安三年京都に生る、父は皇太后宮大進藤原有範、母は対馬守源義親の女吉光、幼時父を喪ひ、伯父範綱に養はれ幼時出家の志あり、九歳の時、粟田口の青蓮院に至り慈鎮和尚に就て得度し、それより比叡山に登り、しばし南岳、天台の玄風を訪ひ、更に山上中堂の薬師及び京都六角堂の観音に祈つて出離生死の捷径を求め、建仁元年二十九歳の春、霊夢を感じて法然上人を洛東吉水に訪ひ、一聞、直に他力摂生の奥旨を獲、乃ち綽空と改め、専ら弥陀の本願を仰ぐ、同三年上人の勧めに依り、関白九条兼実の季女玉日を娶り蓄妻噉肉の宗を創めた、真宗がそれである、元久二年四月四日、法然上人の許により『撰択本願念仏集』を手写し、内題の字、『南無阿弥陀仏往生之業念仏為本釈綽空』の十七字及び後嘱染筆を親授され、同じく上人自録の寿像を授けられ、永く一門の宗要となる、かくて法然上人の盛徳日に挙るや南都北嶺の仏徒之を妬み承元元年二月朝に奏請したので上人の門下数人は斬に処せられ、上人は土佐に遷された、親鸞またこれに座して名を藤井善信と改め越後の国府に流さる、此の時親鷺は『大師聖人(法然)もし流刑に処せられたまはずば、我また配所に赴かんや、もしわれ配所に赴かずば何によりてか辺鄙の群類と化せん、是なほ師教の恩致なり』と獅子吼した、親鸞はかく僧にもならず俗にもあらずといふので禿といひ、自ら愚禿親鸞と号した、建暦元年、順徳天皇の即位に方り恩赦を蒙り翌二年帰洛の途次、偶々法然上人の訃を聞き帰洛の要なしとて道を転じ信濃武蔵を経て常陸に赴き、幽棲を稲田に占め、以て四隣に道を伝へた、老若男女競うて集り門前市を為す、修験者弁円が親鸞を刺さうとして庵室に到つたが一謁するや忽ちその徳に服して門弟となつたのも此時であつた、親鸞こゝに留ること二十余年『教行信証』六軸を草して真宗開闢の基礎を定め文暦の初め、京都に帰り弘長二年十一月二十八日病の為め入寂す、寿実に九十、廟を洛東大谷に建て影像を安置し、後、亀山天皇大谷の坊舎を勅願所に陞し号を賜ひて久遠実成阿弥陀本願寺といふ、今の東西本願寺がこれで、明治天皇更に見真大師の諡号を賜つた。  (仏教辞林)

親鸞上人画像              京都東本願寺蔵

浄賀筆   親鸞上人画伝四巻   東京報恩寺蔵

同   同          京都仏光寺蔵

親鸞上人絵伝四巻           上総照願寺蔵

同     三巻            三河妙源寺蔵

田能村竹田筆  『親鸞上人剃髪図』  松本双軒庵旧蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)