藤原保則

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ふじわらの やすのり


画題

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解説

前賢故実

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右大臣継縄の曾孫。從五位下を叙せられ、備中権介を務めていた。備中へ着任したとき、ひどい旱魃によって飢饉が発生、盗賊らが公然と行動し、郡民たちが互いに略奪と殺しをしていた。これに加えて、前任の国守が苛酷な管理をしたため、民が国を離れ、牢獄に囚人が溢れていた。保則は寛大な政策を取り、小さい過ちを許し、大局を守り、仁徳と恩沢のある施政を行った。すると、民が幼児を背負い、備中国へ帰属し、夜になっても戸締りすることがなく、家々が豊かになり、賦税による国の収入が倍増した。この功労によって、保則は從五位上を叙せられた。のち備中守、備前権守を歴任、その業績は備中時代と同様に良風美俗と讃えられた。治下の官吏と民衆に敬愛されて、民の父母と呼ばれていた。備前と備中の境に吉備津彦という神があり、甚だ霊験があるという。吉備津彦神はかつて正体を現わして、保則に「公の徳化に感心して、公の治国の助けになると望んでいる。」と語った。ある時、安芸の盗賊が険勢の地によって備後の調絹を強奪した。逃走した賊は、備前を通る際、旅館の主人に「国守の業績はどうでしょうか」と聞いた。旅館の主人は「国守の徳化は国の隅々までに及び、国内には廉潔でない者がいない。神明は国守の恩沢と信義に感心しているので、奸佞がいれば、吉備津彦神は必ず現れ悪人を懲罰するのだ。」と答え、さらに保則の業績について細かく語った。これを聞いた賊は、驚いて顔色が変わり、終夜歎いていた。朝になると、賊は走って国府へ行き、ぬかずいて自首した。保則は、「本人が自ら善人になろうとしているので、悪い人ではない。」と言い、盗まれた絹に封を付け加えて、これを備後へ返却するようと賊に託した。部下たちが「奸人を信じてはいけない」と口を揃えたが、保則だけは自分の処置を固持した。すると、賊は保則に命じられた通りに、絹を備後府へ持って行った。国守の小野喬が検め、絹を受け取って賊を放免した。賊はまた備前に来て保則に感謝の言葉を申しあげた。保則の徳化はみなこのような類いであった。その後、出羽の夷俘が叛乱を起こして、朝廷は保則を出羽権守に任命した。鎮守将軍の小野春風、陸奥介の坂上好蔭らが、みな保則の命令に従うことになった。恩威並びの政策が行われ、津軽から海島にまでの各夷俘は、親の代より蝦夷に通じていなかった者であれば、悉く保則を信服して投降した。これ以降保則は、從四位上へ昇進、寛平七年卒、享年七十一歳。生前の保則は、播磨守、讃岐守、太宰大貳をも歴任、何れも素晴らしい業績を残した。廉潔を好み、謙虚さを貫く性格で、善に飢渇しているように善行を積み、人倫を守り、人材の選別にも優れた。

(『前賢故実』)