菅原道真

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総合

すがわらのみちざね

842年~903年(承和12~延喜3)。 平安時代の学者、政治家。菅原是善の三男。菅原氏からは代々有名な学者が出たが、道真も11歳で詩を作り、父を驚かせたという。文章得豪生を経て八七二年(貞観一四)に渤海使の接伴員となり、その詩才を賞された。八七七年(元慶元)文章博士となったが、八八六年(仁和二)、讃岐守となって赴任した。 左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没し、為に、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。また道真が優れた学者であったことから、平安時代以来、学問・詩文の神とされ親しまれている。



〈参考文献〉

『日本史大辞典』平凡社すがわらみちざね


画題

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解説

画題辞典

「かんこう」(菅公)の条を見るべし。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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從三位、参議の是善の三男。幼い頃より聡明さが群を抜いて優れていた。古典籍を博く精通していて、文章の内容や言葉が豊かで華麗だった。貞観中、高い評価で対策に及第し、累進して式部少輔、文章博士となった。のち権大納言、右近衛大将を歴任、遂に台鼎へ栄転。延喜中、藤原時平に陥れられて、太宰権帥へ左遷された。まもなく薨去、享年五十九歳。その後、京都周辺に災害や異変が多発したため、世間では道真公を左遷させたからだと囁かされていた。朝廷は詔を下し、道真公の官職を戻して正二位を贈った。大富天神という謚号を賜った。村上天皇の時代に、京都の北野に祠を建立し、道真公を祀り始めた。一条天皇はさらに太政大臣、正一位を道真公に追贈した。道真公は儒家として、将相にまで官位を極め、政治制度に精通し、裁決をすらすらと下していた。その名声がかつて世に抜きんでていて、その才能が古今稀に見るという。

月夜見梅花 菅公 時年甫十一(十一歳の時)

月耀如晴雪(輝いている月は、晴天下の雪のように眩しくて白い) 梅花似照星(月の光に照らされて梅花は星のように見える) 可憐金鏡転(惜しいことに輝いている月が動き出し暗くなり) 庭上玉房馨(庭にある梅の木から花房の香だけが漂ってきた)

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

かんこう「菅公」を見よ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)