祇園女御

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ぎおんにょうご


  1. 平家物語 原文

祇園女御

また、ある人の申けるは、清盛は忠盛が子にはあらず、まことには白河院の皇子なり。その故は、去る永久の頃ほひ、祇園女御と聞えし幸ひ人おはしける。件の女房の住まひ所は、東山のふもと、祇園のほとりにてぞありける。白河院つねは御幸なりけり。ある時、殿上人一両人、北面少々召し具して、忍びの御幸有しに、頃は五月廿日あまりのまだ宵の事なれば、目ざすともしらぬやみではあり、五月雨さへかきくらし、まことにいぶせかりけるに、件の女房の宿所ちかく御堂あり。御堂のかたはらにひかり物いできたり。かしらは白銀の針をみがきたてたるやうにきらめき、左右の手とおぼしきをさしあげたるが、片手には槌のやうなるものをもち、片手には光る物をぞもたりける。君も臣も「あなおそろし。是はまことの鬼とおぼゆる。手にもてる物はきこゆるうちでの小槌なるべし。いかがせん」と騒がせをはしますところに、忠盛、その頃はいまだ北面の下臈で供奉したりけるを召して、「此中にはなんぢぞあるらん。あの物ゐもとどめ、きりもとどめなんや」と仰ければ、忠盛かしこまり承はて行むかう。 内々おもひけるは、「此もの、さしもたけき物とは見ず。狐、狸などにてぞ有らん。是をゐも殺し、きりも殺したらんは、無下に念なかるべし。生け捕りにせん」とおもてあゆみよる。 とばかりあてはさとひかり、とばかりあてはさとひかり、二三度しけるを、忠盛はしり寄て、むずと組む。組まれて、「こはいかに」と騒ぐ。変化の物にてはなかりけり。はや人にてぞ有ける。その時上下手々に火をともひて、是を御らんじ見給ふに、六十ばかりの法師なり。 たとへば、御堂の承仕法師でありけるが、御灯まいらせんとて、手瓶といふ物に油を入てもち、片手には土器に火を入てぞもたりける。 雨はゐにいてふる。ぬれじとて、かしらには小麦のわらを笠のやうにひき結ふでかづひたり。かはらけの火に小麦のわら輝やいて、銀の針のやうには見えけるなり。事の体一々にあらはれぬ。「これをゐもころし、きりもころしたらんは、いかに念なからん。忠盛がふるまひやうにこそ思慮ふかけれ。弓矢とる身はやさしかりけり」とて、その勧賞にさしも御最愛と聞えし祇園女御を、忠盛にこそたうだりけれ。 さてかの女房、院の御子を妊みたてまつりしかば、「うめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛が子にして弓矢とる身にしたてよ」と仰けるに、すなはち男をうめり。此事奏聞せんとうかがひけれ共、しかるべき便宜もなかりけるに、ある時白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊国いとが坂といふ所に御輿かきすゑさせ、しばらく御休息有けり。やぶにぬか子のいくらも有けるを、忠盛袖にもりいれて、御前へまいり、「いもが子ははふ程にこそなりにけれ」と申たりければ、院やがて御心得あて、「ただもりとりてやしなひにせよ」とぞつけさせましましける。それよりしてこそ我子とはもてなしけれ。此若君あまりに夜なきをし給ひければ、院きこしめされて、一首の御詠をあそばしてくだされけり。   よなきすとただもりたてよ末の代にきよくさかふることもこそあれ さてこそ、清盛とはなのられけれ。十二の歳兵衛佐になる。十八の年四品して四位の兵衛佐と申しを、子細存知せぬ人は、「花族の人こそかふは」と申せば、鳥羽院しろしめされて、「清盛が花族は、人におとらじ」とぞ仰ける。昔も天智天皇はらみ給へる女御を大織冠にたまふとて、「此女御のうめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰けるに、すなはち男をうみ給へり。多武峯の本願定恵和尚是なり。上代にもかかるためしありければ、末代にも平大相国、まことに白河院の御子にてをはしければにや、さばかりの天下の大事、都うつりなどいふたやすからぬことどもおもひたたれけるにこそ。