祇園会

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

ぎおんえ


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

祗園会は祗園御霊会の略称にて、京都祗園社に行わるゝ斎会なり、今は祗園祭礼という。祗園社は貞観十八年、常住寺円如法師が、観慶寺を建て、牛頭天王を勧請したるに始まり、承平四年始めて社殿を建つ、祗園会は天祿元年六月十四日、疫病退散の為めに行われたるが初めにて、初め仏式たりしか、後には神式となる。大治二年六月の御霊会、勅使唐鞍に乗り、殿上人、馬長童、巫女、種女、田樂舞人金銀錦繍を装うもの数百人之に随い、最も美観を極む、室町時代に廃る、江戸時代に復興され今日に及ぶ。その次第の大要を挙ぐれば、五月晦日の夜、神輿洗とて神輿一基四条縄手に運ばれて水を注ぐ儀あり。かくて六月七日に至リ神輿三基本社を出て京の町々を渡御して四条京極の御旅所に幸す、此に滞留十四日に及ぶ。渡御の鹵簿壮観を極め、警衛にはつるめそなどあり、山鉾若干又之に従ふ。鉾は長さ十丈余の心木を飾屋台の上に立てたるものなり、屋台の上にては舞踊をなし、笛鉦太鼓の囃あり、謂ゆる祇園はやしなり。山は台の上に山の形を件り、其上に松を立て傍に飾り人形を置きたるもの、双方共に送りと称して裏面には錦繍を張り綺羅を尽す。京の町々は一日の業を休み緋毛氈を敷き金屏風張り廻わして渡御を拝観す、素より京都年中行事中第一の壮観にして日本三大祭の随一と称さる。

古く上佐光信に祗園祭礼図あり、その他各家の手によって屏風などに図せられたるものは極めて多し。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

祇園会は京都祇園社に於て行はるゝ祭礼で祇園御霊会の略称、祇園社に就いては『都名所図会』に

祇園社は下河原を南面とし鳥居は石柱にして感神院といふ豎額あり、照高院道晃親王の筆なり。西南の楼門には御随身います、神殿の中央は大政所(牛頭天王、素盞嗚命垂跡)東の間は八王子、西の間は稲田姫、本御前。

抑祇園牛頭天王を愛宕郡八坂郷感神院に勧請せし濫觴は、聖武天皇の御宇天平五年三月十八日、吉備大臣唐土より帰朝の時、播摩国広峰に垂跡し給ふを崇拝れり、其後常住寺の十禅師円如上人に神托あつて帝城守護の為め貞観十一年に遷座し給ふなり、中臣祓抄に曰清和天皇貞観十八年疫神崇をなして世の人疾に悩むこと以の外なり、曩祖日良麿洛中の男女を将て六月七日十四日疫神を神泉苑に送る、しかりしより年々かたの如くしつけて祇園会といふなり

といひ又、

祇園御霊会六月七日十四日山鉾の行粧祭礼の礼式、其外五月廿九日六月十八日の神輿洗ひ等世の知る処なれば委しく記すに及ばず、凡洛陽の祭礼多しといへど、此会は殊に奇観のかず/\しければ皆々見つくす人稀なり

とある、天下三大祭の一つである。

これを画いたもの亦少くない。

伝長谷川久蔵筆  長尾欽弥氏蔵

無款屏風一双   伊東深水氏

藤松宮芳年筆   第三回文展出品

三木翠山筆    第十二回文展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)