番付

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総合

顔見世番付

顔見世興行に出される番付。一年の新しい座組が誰であるのかを知らせるために出された。劇場正面の意匠を模したデザインで、江戸の場合上段中央に櫓紋、その下に櫓下の座元と櫓下看板四枚。その左右に一座の役者・歌方・下座の名前が二段組で入る。それぞれが枠で区切られており、枠の幅、文字の太さ、位置などは決められた看板の位置をそのまま踏襲していたに違いなく、一座の中での序列が一列の中での序列が一目でわかるようになていて、やはり看板を模したものであることがわかる。

辻番付

最初、劇場広告としての絵看板が起こり、それを一枚の紙に凝縮して印刷し、大量のポスターとして、贔屓に配布したり髪結床や風呂屋などの人の集まる場所に張り出して広告の効果を高めようとしてできあがったもの。享保十九(1734)年のものが現在認められる最も古いもの。

役割番付

辻番付が興行の宣伝道具として定着する前は、役割番付が唯一の興行情報の伝達道具であった。上方は大坂型と京都型があり、それぞれ、元禄二(1689)年(大坂)、元禄六(1693)年(京都)より残っている。江戸は元禄五、六年の役割番付の存在が確認できる。出演役者の順位や狂言名題、役人替名などを記す。

絵番付(江戸)

狂言の筋、役割を挿絵だけで記したもの。当初は、元禄期の絵入狂言本の挿絵部分が独立して成立したものが絵本番付となる。それ以降は、子供絵本の形態を借りて出版された。天明頃から劇場出版としての地位を獲得し、明治まで継続した。

絵尽(上方)

浄瑠璃絵尽の影響を受け、それまでの絵入狂言本の体裁を、筋書きを簡略化して上部に記し、すべてに挿絵を配した。その後、さらに筋書が廃止されると絵尽の体裁をとる。当初、鼠色、黒表紙が付いたが、後に色刷の包紙で包んで売り出されていた。