燓噲門破り

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はんかいもんやぶり


総合

解説

関連項目

朝比奈門破り板額門破り

用例

作中解説

蒙求』(『鑑賞中国の古典 蒙求』1989年、角川書店)

十二 燓噲闥を排し、辛毗裾を引く帝嘗て病み、人を見るを悪む。禁中に臥し、戸者に詔し、群臣を入ることを得る無からしむ。群臣絳・灌等、敢えて入る莫きこと十余日。①噲乃ち闥を排し直ちに入る。大臣之に随う。(…中略…)亜父范増、項荘をして剣を抜きて舞わしめ、帝を撃たんと欲す。項伯常に之を屏蔽す。②噲、事の急なるを聞き、盾を持し直ちに入り、怒ること甚し。

史記』(北京 : 中華書局 、1975年)

噲乃チ闥ヲ排シ直ニ入ル(樊酈滕灌列傳)噲即チ剣ヲ帯シ盾ヲ擁シテ軍門ニ入ル(項羽本紀)

清刊本『西漢演義伝』巻二(『対訳中国歴史小説選集』3、1983年、ゆまに書房)

賀仁秦鴻門設宴 燓噲至寨門 剣擁盾経入

貞享5(1688)年頃成立「はんくはいいかづちどり」(『金平浄瑠璃正本集』第三、1969年、角川書店)

所へくだんの万りき、くろがねのたてをわきばさみ。しよ人にすぐれ立出。さあらは某いくさはじめに、門をやぶりて、かた/\にはたらかせんと。いふよりはやくはしりかゝつて、もつたるたてを身によこたへ。門のとびらにおしあて、ゑいや/\とおすほどに。さしもしたゝか成くんもん、なんなくどうとおしやぶる。とびらに打れて百きあまり。ておひしにんぞいできける。

元禄7(1694)年刊『通俗漢楚軍談』(『通俗漢楚軍談』1917年、有朋堂書店)

鴻門会燓噲排闥 燓噲は鐵の盾を腋に挟み、剣を帯して陣門に至り、大音揚げて呼ばはりけるは、今日鴻門の会に相従う者、早朝より来て外にあれども、都べて一滴の酒を賜らず、我自ら魯公に見えて酒を賜らんとて進みければ、丁公、擁歯等、曲者なり、通すなとて、急に門を閉ぢけるを、燓噲事ともせず、力を出して門の闥を推すに、陣門地に倒れて、番の士卒壓し殺さるゝ者数を知らず。

正徳5(1715)年刊『画林良材

燓噲は沛縣の人。はじめ家まづしくして。いぬを屠り世をわたれり。明の高祖の臣となりしより。勇名☆下にあらはれたり。楚の項羽の臣。范増がはかりことにて。鴻門の会にことをよせ。高祖をまねき。うちとらんとす。燓噲は門ぐわいにあり。事す。てに急なりしかば。張良はしり出はんくわいにかくとつぐる。はんくわいおどろき。いそぎ入らんとするに。うちより門をとぢしかば。もの/\しやとちからを出し。ゑいといふてをしければ。門はくづれてうちたをれ。死するものかずをしらず。はんくわいは。中ぐんにかけ入り。剣にて油幕をからげ。項羽をにらみたつたりしに。まなじりさけて血をそゝぎ。かしらのかみは。さかしまに立あがれり。項羽これをみて。はんくわいに。酒をのましめるとあれば。はんくわいはかたしけなしとて。一斗をもるさかつきにて。引かけて一つのみ。いの子のかたを。剣をもつてきりくらふ。項羽打わらひ。さかんなまかななんぢ。又のぶべきかとゝふ。はんくわいきいて。われ死をたしさけず。なんぞ酒を辞せんといふ。項羽かさねて。たれがために死せんとおもへる。はんくわいそのとき。今日高祖。すでに謀せられんとす。さるによつて。われ死をおそれすしてこゝにきたれり。これ死をだも。さけざるところなりといへば。項羽大にかんじ。高祖はかゝるよき忠臣をもたれたり。まことに☆下の壮士なりといひて。大い酒に酔たをれ。前後もしらずね入りたり。そのひまに高祖は。はんくわいをあひぐして。しのびやかににげかへり給へり。張良が智。はんくわいが勇なかりせば。高祖いかでか。此とき害をのがれ給ふへき。事は史記に見みたり。

元文5(1740)年『絵本鶯宿梅』 橘守国

噲いかつて。左にたてを脇ばさみ。右の手をさしのべ。力をきはめておしければ、御しもの大門みぢんにくだけたり。

文政4~天保12(1821-1841)年『甲子夜話』第六十三

世に鴻門会、燓噲の門破りと云伝へて、稗史は論なし。狩野家の輩も皆、盾を脇挟て大門を推毀る体を描く。是を見れば、噲は誠に大力量なる哉。去れども『史記』を見れば、大門を推し毀りしには非ず。画工の文を読誤りたるにや。

文政3~天保8(1820-1837)年『海録』「燓噲排闥」

今燓噲門やぶりとて、楯を持ちて門をやぶるの図を画く事は、もと蒙求より謬りしものなり、門を破りしは燓噲排闥とて、高祖の病める時に、戸者に詔て群臣を入ざらしむる故に、排レ闥(師古云、宮中小門)、直に入たりし也、鴻門の会に、事急なりと聞て楯を持て入たるにて、これは野陣なれば、幕など張れる位の事なるべし、この二條を蒙求に連ねいへるをもて、世に訛り伝へしなり、かゝる事世にはいと多かるものぞ