日本武尊

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やまとたけるのみこと


画題

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解説

画題辞典

日本武尊は御名は小碓尊といふ、景行天皇の皇子なり、二十七年八月熊襲の反するや、勅を奉じて熊襲に至り、女装して魁師川上梟帥の営中に入り之を刺殺す、梟師死に臨み、その武勇を稱して日本武皇子の號を上る、四十年東夷叛するに及び、又勅を奉じ天叢劒を請けて東征の途に上る、夷賊駿河燒津に於て野火を放ち、尊を殺さんとす、尊神劒を抜き草を薙ぎ、火を滅して賊を平ぐ、之より天叢劒を草薙劒といふ、尋いて相模より海を渡りて玉の浦を経て蝦夷地に至り、之を平定し、日高見国より歸る、甲斐酒折宮に於て侍者に問ひ、「新治筑波を過ぎて幾夜かねつる」といひ、侍者答へて「かゝなめて夜には九夜日には十日を」といひしに我国連歌の起原なりといふ、歸途近江膽吹山に於て病を得、伊勢に歸り、熊褒野に薨ず、年三十なり、其地に葬りしに、自鳥其れより飛びて倭琴弾原に留り、更に河内旧市に抵る、即ち其等の地に悉く陵を営む、川上梟帥を刺すの図、劒を抜いて草を薙ぐの図、安房航路中海上暴風に逢ひ弟橘姫の身を海に投じて海神の怒を沈むる図等は、古來屢々歴史書として描かるゝ所なり、菊池容齋の画く所あり。(名古屋加藤某氏所蔵)

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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日本ともいう。童名は小碓という。景行天皇の皇子。容貌が端正、身長が一丈、鼎を持ち上げほどの力持ちである。小碓が十六歳のとき、天皇が熊襲の征伐を小碓に命じた。小碓は童女の姿となり、敵の家に潜入して賊首の川上梟帥を刺し殺した。賊がみんな恐怖に陥った。景行天皇四十年、蝦夷で叛乱が起こった。皇子が大将軍、吉備武彦と大伴武日が副将に任じられ、東夷を征伐することになった。皇子は出発してから、まず伊勢神宮を拝んだ。その後、駿河浮島原に至る。そこの賊が偽って従い、皇子を野原での狩りへ誘い出し、燎原の火で皇子を殺そうとした。皇子は天叢雲剣を使ってそばにある草を切り払うと、火が強い風に煽られて賊軍の方へ攻めていく。賊はみんな戦いに敗れて散り散りになった。そして、皇子は陸奥を通して蝦夷のところに入った。官軍が向かうところすべての敵が破られ、大勢の賊を恐怖に突き落とした。遂に酋長を捉えることができて、辺境の地が平定された。

東夷征伐から凱旋したとき。尾張に入ってから尾津に至る。嘗て遺失した剣を松の木の下に得る。歌曰

烏波利珥(をわりに) 多陀珥霧伽幣流(ただにむかえる) 比苔菟麻菟(ひとつまつ) 阿波例(あわれ) 比等菟麻菟(ひとつまつ) 比苔珥阿利勢麼(ひとにありせば) 岐農岐勢摩之塢(きぬきせましを) 多知波開摩之塢(たちはけましを)

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

御名は小碓尊、また日本童男とも称す、景行天皇の皇子、二十七年八月熊襲の反するや、十月勅を奉じて西征し、十二月熊襲の国に到り女装して魁帥川上梟帥の営に入り之を刺す、梟帥将に死なんとして尊の勇武に感じ日本武皇子の号を上る、これから日本武尊と称す、熊襲既に平ぎ、帰途吉備難波の賊を征し翌年二月京に帰る、四十年東夷叛す、十月勅を奉じて東征の途に上り道を抂げて伊勢神宮を拝し進んで駿河に至り、土賊を平げ、相模から海を渡つて上総に航し葦浦から玉の浦を経て蝦夷の境に入る、賊は竹の水門で防戦したが尊悉く之を敗り、日高見国から新治筑波を過ぎ甲斐に至り、酒折宮に居る、偶々

新治、筑波を過ぎて幾度か宿つる

と歌はせ給うて、其御火焼の老人

日日〈かか〉並〈な〉べて、夜には九夜、日には十日を

と歌へ答へ奉つた、これを連歌の起原とすと、途々皇化に服せぬ賊を平げ給ひつゝ尾張に入り、暫くこゝに留まり近江胆吹山に賊を征せられたが、山中に病を得給ひ、伊勢の能褒野に薨じ給ふ御年三十、一説には白鳥あつて能褒野から飛立ち、倭琴弾原に留り、更に河内旧市に飛ぶ、その地に各陵を造つた、これを白鳥の三陵といふ。  (大日本史)

日本武尊の御事跡を画いたものに左の作あり

小堀鞆音筆  『酒折宮連歌』  池沢定吉氏蔵

川端竜子筆  『火生』     第八回日本美術院出品

平福百穂筆  『白鳥陵』    第三回金鈴社出品

小堀安雄筆  『日本武尊』   第十四回革丙会展出品     

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)