小野篁

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おのゝたかむら


画題

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解説

画題辞典

小野篁は世に野相公と称す。参議岑守の子なり、弘仁年中岑守陸奥守となるや、篁任に従い馳馬を習ふ、後京都に還りて復学業を事とせず。嵯峨天皇嘆じて曰く、斯人にして猶弓馬の士となるかと、是より慚悔して学に志すという。弘仁十三年文章生に及第し、それより累進す。天長年中清原夏野等と令義解の選集に与かり、承和元年遣唐副使となり、三年出発せしが、颶風に遇いて帰る、四年再び発して唐に赴き。大使藤原常嗣と船を争ひ、乗船を肯んぜず、之を以て帰後五年十二月隠岐に流さる、途上謫行吟七十韻あり、既にして召還せられて本位に復す、仁寿二年十二月従三位左大辨を以て薨ず。人となり直言不覊なりしを以て世に納れられず、其オを忌むものは野狂と呼ぶに至る。母に奉ずる最も厚く、親友に尽くす亦頗る重し。文章は当時に冠絶し、草隷に二王の迹あり、後世之に模楷す。詩は白樂天に句格甚だ相似たり、又画を克くし特に仏画に長ず。

篁の機智を描くもの、岡田為恭の作(谷森真男氏所蔵)あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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参議の岑守長の子。参議、左大辨、從三位にまで累進した。はじめは弓馬を好み、文学をしなかったが、嵯峨天皇に詰問されて、慚愧に堪えず学問に志すようになった。文章生に及第してから、弾正少弼となった。承和五年、遣唐副使となり、才能を力として正使の常嗣に比べても差がなかった。海へ出ようとしたとき、正使の船が少し損傷があったので、正使の船を篁の船と取り替えることになった。これに怒った篁は病気を理由に乗船を拒否し家へ帰り、西道謡を作り遣唐の役目を諷刺した。嵯峨天皇は激怒し、篁を隠岐への流罪に処した。隠岐へ行く途中、篁は謫行吟という七言十韻を賦した。人々が競って、その奇抜で麗しく奥深い詩句を吟唱し語り伝えていた。翌年、篁は都へ召還され、まもなく元の官位に復された。文彩においては当時では比べるものがないほど優れていて、草書や隷書にも秀でていた。篁は従来清貧であるが、非常に母親を大切にしていたし、俸禄が少しでも余ったら親戚や友人に分け与えていた。危篤の際、諸子に「息が絶えたら、他人に知らせず、すぐに棺に納めてください。」と命じた。文徳天皇仁寿二年薨去、享年五十一歳。篁は、はじめて勉強をしていた下野の足利郷で校舎を建てたことがある。これは今の足利学校の前身だ。

野人閑散立身何(暇でのんびりしている粗野な人だから、何を以て世渡りできるだろうか) 自課功夫文字魔(学問の勉強に没頭したら文字という魔物に惑わされてしまった) 蹇歩更教吹退鷁(思うままに歩けないほど強い風の中で、鷁首の船が風に押さえられて前進できず) 醜嚬還被敵横波(渋い顔になった飾りの鷁は眉をひそめながら横波に抵抗している) 水中投物浮沈異(水中に物を投げ込むと浮くものも沈むものもあり) 手裡蔵鉤得失多(手に玉鉤を握っていた趙は得たものも失ったものも多い) 折軸孟門難進路(軸が折れると車は孟門のような狭い道を通りにくくなり) 可怜騏驥坦途過(平坦な道しか走れない駿馬は哀れだ)

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

世に野相公といふ、参議岑守の子で、弘仁中岑守陸奥守となるや、篁も任に従ひ馳馬を習ふ、後京都に還つたが学業を顧みないので、嵯峨天皇斯の人にして猶弓馬の士となるかと嘆じ給ふ、篁聞いて慙愧学に志す、弘仁十三年文章生の試験に及第し、天長九年累進して従五位太宰少弐となる、十年三月東宮学士弾正少弼に進み清原夏野等と『令義解』の撰にあたり、承和六年正月遣唐副使となり備前守を兼ね刑部大輔となる、三年紫宸殿に謁を給ひ綵帛紗金等を下賜せられ唐に向つたが忽ちにして颶風に遭ひ船破れて還り四年再び唐に赴く事となる、会々大使藤原常嗣と船を争ひ病と称して乗船せぬので嵯峨天皇罪を論じて隠岐に流し七年四月召還、八年九月本位に復し、九年陸奥守となる、次で累進又累進十四年参議兼弾正大弼となつたが、これみな天皇篁の文才を愛し給うての事である、文徳天皇即位せらるゝや更に正四位下近江守から左大弁とまで進んだが幾干ならずして病む、天皇之を愍み屡々人を遣はして物を賜ひ従三位を授く、仁寿二年十二月薨ず歳五十一、人となり不羈直言を好む、故に容れられず、母に仕へて至孝、文章冠絶して書に巧に草隷は二王の跡あり、詩は白楽天に比したといふ。  (国史大辞典)

その逸事を画いたものに冷泉為恭の作があり、大和国弘仁寺にはその画像が伝へられてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)