小宰相

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こざいしょう


画題

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解説

画題辞典

小宰相は上西門院の女房にして、刑部卿憲実が女なり。当時禁中第一の美人の評高し、安元の春、小宰相年十六、女院法性寺の花見に供奉せし折、平家の公達越前三位通盛に懸想され、意を通ぜらるゝ三年に及びしに、遂に返事せず、或る時、小宰相里より御所に参入さるゝ折、通盛「我が恋はほそ谷川のまろきはし ふみかへされてぬるゝ袖かな」の歌したゝめて、其の車の内に投げ入れしとなり、小宰相之を院の内にて取り落せしを、女院取り上げられ、余りに心強きも女子の情けにあらずとて、御自ら「たゝたのめ細谷川のまろきばし ふみかへしてはおちさらめやは」と認めて返事し玉ひ、それより通盛の卿と深く契りしとなり、平家都落の砌、相携へで共に都を落ちたりしが、一の谷の戦に通盛戦死せしを、小宰相船中に在りて之を聞き、嘆き悲しみ、夜更けて人静かなるを待ち、舟ばたに出で念仏唱え一蓮托生を祈り、海に投じて失せたるは哀れ深きことなり。委しくは平家物語に記るされ、後には謡曲にも謡われ、画材ともなりたり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

小宰相局を見よ。

(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平家物語』に現はれた一美人、平家の公達通盛に懸想された物語が名高い。

此北方と申は、頭刑部卿則方の女、上西門院の女房、宮中一の美人、小宰相殿とぞ申ける、此女房十六と申せし春の比、女院法勝寺へ花見の御幸有しに、通盛卿其時に未だ中宮の亮にて供奉せられたりけるが、女房を只一目見て、哀れと思初けるより、其面影のみ身に立傍て、忘るゝ隙も無りければ、常は歌を詠み文を尽して恋悲しみ給へど、玉章の数のみ積て、取入給ふ事もなし、既に三年に成しかば今を限りの文を書て小宰相殿へ遣す、取伝ける女房にだに不逢して、使空しう帰る道に、小宰相殿は我里より御所へぞ参給けるが、使道にて行会ひ奉り空う帰り参らん事の本意なさに、つと走り通る様にて小宰相殿の乗給へる車の簾の内へ通盛の文を投入ける、伴の者の問給へば不知と申す、此文を明て見給に、通盛卿の文也、車に可置様もなし、大路に捨んも有繋にて袴の腰に挟みつゝ御所へぞ参給ける、さて宮仕給し程に、所もこそ多けれ、御前に文を被落けり、女院これを御覧じて、急ぎ取せおはしまし御衣の御袂に引蔵させ給ひて『珍敷き物をこそ求めたれ、此主は誰なるらん』と仰ければ、女房達万の神仏を懸て知ずとのみぞ被申ける、其中に小宰相殿は顔打赤めて物も不被申、女院も通盛卿の申とは内々知召れたりける間、此文を明て御覧ずるに、妓炉の煙の匂ひ殊に馴敷、筆の立ども尋常ならず、心強も今は中々嬉しくなど細々と書て奥には一首の歌ぞ有ける。

我恋は細谷川の丸木橋ふみ返されて湿るる袖哉

女院『是は逢はぬを恨たる文や余に人の心強も中々怨と成る者を』中比小野小町とて眉目容世に勝れ、情の道有難かりしかば見る人聞く者、肝魂を痛ましめずと云事をなし、されども心強き名をや取たりけん、果には人の思ひの積りとて、風を防ぐ便もなく雨を漏さぬ業もなし、宿にくもらぬ月星を涙に浮べ野辺の若菜、沢の根芹を摘てこそ露の命を過しけれ。女院『是は如何にも返事可有事ぞ』とて御硯召寄せて忝くも自御返事をあそばされけり。

只たのめ細谷川の丸木橋ふみ返しては落ささらめや

胸の中の思ひは富士の煙に露れ、袖の上の涙は清見が関の浪なれや、眉目は幸の花なれば三位此女房を給て互の志不浅、されば西海の浪の上舟の中の住居迄も引具して同じ道へぞ被趣ける。

優美な物語として大和絵の好画題となつてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)