土佐坊昌俊
とさぼうしょうしゅん
画題
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解説
(分類:武者)
「弁慶尻馬」源頼朝は、弟の義経を許さず腰越から追返したあと、土佐坊昌俊を京都に派遣し、堀川の館の義経を討つように命じた。土佐坊は熊野詣と偽って京に宿をとったが、これを怪しんだ弁慶は単身土佐坊の宿所に乗り込む。弁慶は、土佐坊を義経の御前に連れ行こうとするが、支度にもたつく土佐坊に怒った弁慶は、土佐坊を抱えて自分の乗ってきた馬に乗せてしまい、自分もその後ろに乗って堀川の館に帰る。
作例:
- 『義経記』(挿絵)
- 『扁額軌範』(慶長3年(1598)の長谷川等伯の絵馬、明暦2年(1658)狩野造酒之丞の絵馬)
- 鳥居清長の細判錦絵
- 国芳「木曽街道六十九次 洗馬」
- 国貞〈1〉「戯絵兄弟・弁慶尻馬」
- ⇒堀川夜討
画題辞典
土佐坊昌俊はもと奈良法師、出でて源頼朝に仕ふ、頼朝義経不和の時頼朝の命を蒙り京都に上り詐つて義経の前に起請を書き、夜になりて堀川六条の義経が宿処に夜討ちす、戦利あらず走って鞍馬に逃れ遂に捕はれて六条河原に斬らる、謡曲には正尊としてこのこと脚色せらる、
長谷川等伯画くもの昌俊図京都北野神社奉額にあり。慶長十三戊申夏六月吉祥日自雲舟五代長谷川法眼等伯筆と記せらる。
(『画題辞典』斎藤隆三)
東洋画題綜覧
鎌倉初世の僧、武勇あり、源頼朝兵を東国に挙ぐるやこれに従ひ、元暦元年八月頼朝弟範頼をして平氏を討たしむるに及び、昌俊またその部下となつて西海に赴いた、会々頼朝義経と不和を生じ、義経京師にあつて叛意漸く現はる、頼朝部下をして義経討伐の任に当らしめやうとしたが応ずるものがない、昌俊進んで之を受けたので、頼朝大に喜び特に下野中泉荘を与へ、その母子の保護を約した、昌俊これに感激し十月九日鎌倉を出でて京に上り十七日手勢六十余を従へ義経の六条室町の邸を襲うた、義経、佐藤忠信等と共に門を開いて出て戦ひ、折柄源行家の来つて援くるあり、昌俊破れて鞍馬の奥に走つたが、山僧之を義経に通じたので捕へられ十月廿六日六条河原で斬られた。
土佐坊昌俊を画いたものでは、長谷川等伯筆の昌俊図、京都北野神社に奉額として存するのが有名である。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)