司馬温公

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しばおんこう


画題

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解説

画題辞典

司馬温公、名は光、字は君実。宋中世の賢相なり、陝州の人、進士甲科を以て仁宗に事へ、英宗の朝を歴て、神宗の時、翰林學士御史中丞となる。会々王安石帝の信任を受けて、謂ゆる新法を布くに当り、主として其の不可を論じて反対す。哲宗の世、左僕射を拝し、天下至治に向ふの端を開く、元祐元年九月病を以て卒す、年六十八。天子朝を輟め、大師温国公を贈り、文正と謚す、資治通鑑二百九十四巻は其著なり。公、洛陽に在る十五年、天下の真宰相と尊び、田夫野老も司馬相公として之を仰ぎ、婦人孺子も其名を知る、公の行く所百姓聚りて其道を遮り、馬進む能はざるものあり、その薨ずるや、天下業を休めて之を弔ひ、親の喪にあるが如く。地方のものは其像を画きて祀り、為めに絵を買って富を為したるものありという。公嘗つて曰く「吾に優されたるものなし、唯平素未だ一事として人に言ふを恥づるの行為をなせしことなし」と、その幼時、他の児童と遊びし時、一児の誤って甕中に墜落せるに、温公之を見て直に石を取リ甕を割り水を出して児を救ひ、器は軽し人命は重しといいたりという逸話は、世に最も知られたるものなり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

司馬温公、名は光、字は君実、夏県の人、池の子である宝元の初、進士、官を重ねて端明殿の学士となる、上疏して青苗助役の法便ならざるを云ふ、出でゝ西京の留台に判となる、退いて洛に居ること十五年、宗立て召て左僕射に拝す、青苗の法やむ、世人いふ、元佑の相業乾を旋らし坤を転するの功ありと、卒して大師を賜はり温国公に封じ文正と諡す、著述、資治通鑑、史剡、通志、涑水紀聞、切韻総図。  (漢土諸家人物誌)

司馬温公、元豊末来京師、都人奔競競観、即以相公目之、左右擁塞馬至不能行、及謁時相於私第、市人登樹騎屋、窺之、隷卒或止之曰、吾非望而君願一識司馬公耳、至於呵叱不退、而屋瓦為之砕、樹皮為之折、及薨京之民罷市而往弔、粥衣以致奠、巷哭以道車者、蓋以千馬数、上命戸部侍部趙贍、内侍省坤班馮宗道護其喪帰葬、贍等還告、民哭公哀甚、如哭其私親四方来往歴葬者蓋数万人、而嶺南封州父老相率致祭、且作仏事以薦公者、其詞尤哀、炷香於其首頂、以送公葬、尚九百余人、京師民尽其像刻印粥之、家置一本。飲食必視焉、四方皆遺人購之、京師画工有致富者蔡京南遷、道中市飲食之類、及知為京皆不肯售、至於詬罵無所不道州県護送吏卒駆逐之、稍息、人之腎不肖、於人心得失一至於此、児童謂君実走卒知司馬温公蓋千載一人而已。  (雲谷雑記)

又、その幼時、甕を破つて中に落ちた童子を救つた逸話も有名である。

もろこしの司馬温公といへる名誉の人、七さいのとし酒かめの中へ、わらべの落ちて死ぬべかりしを石をもつて其かめをうちわり、たすけけり、才智をかんじて是を撃甕の図と号してためしなき事に語りつたへ絵にもかき記しぬ。  (可笑記)

河鍋暁斎筆  『温公』  宮田氏蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)