千利休

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せんのりきゅう


画題

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解説

画題辞典

千利休、名は宗易、泉州堺の茶人なり、初めの名は、与四郎、姓は田中、納屋と称す、その先室町幕府に仕へ同朋となり千阿弥といいしより族称となす、年十七茶道に入り、紹鴎に就き遂に名を一世に博し、天下の数寄と称せられ、茶道の聖と崇めらる、太閤が風流の催なる北野の大茶会には命を奉じて事を督す、利休に女あり吟子という、艶麗比なし、万代屋某に嫁せしが、寡婦となりて閑居す、太閤鷹野の際之を見て容れんとす、利休辞して応ぜず、為めに太閤の恚を買ふ、折柄大徳寺山門を再建し、利休その自像を楼上に安んずるに及び、不遜として罪を問はれ、天正十九年二月廿八日を以て死を賜はる、利休命を拝し花を活け茶を点じ、阿弥陀堂釜以下を細川忠興に授け、自製茶匙を弟子宗巖に与へ、数寄屋の床上に默坐し、絶命の偈を唱し従容死に就く、年七十一なり。利休初め少にしく紹鴎に學びし時、紹鴎其オを試みんとし先づ自ら庭に灑き砂を布き清楚を極めて後、利休を招き掃除を命ず、利休至る所箒を当つべき所なきを見、即ち微に庭樹を撼かし後入りて命を果せしを報ず、紹鴎抵り見るに紅葉三四青苔の上に点綴せられ、雅致掬すべきものあり、紹鴎その趣致の豊かなるを感じ其訣を伝ふという、

第五回院展に横山大観が画きし「千与四郎」はこの逸話を図せるものなり。その他、西本願寺所蔵に円山応挙の図あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

茶人、初字は与四郎、其の先は室町幕府の同朋で千阿弥と名く、子孫因つて族称とした、利休名は宗易といひ、利休はその号である、十七歳にして茶道を紹鴎に学びその蘊奥を究めた、利休初め織田信長に仕へ屡々安土に伺候し後豊臣秀吉に仕へ寵遇され或は西伐に従つて茶を箱崎松原に点ず、天正十六年後陽成天皇聚楽に行幸の砌、豊臣秀吉已に関白となり、技芸に長じたもの数人に位を奏請した、利休も其中にあつたが固辞し居士と称せんことを請うた、秀吉仍て大徳寺の僧古渓に命じ利休居士の号を授けしめた、利休また自ら名けて抛筌斎と云ふ、古渓に師事して禅を学ぶ、此の歳十月秀吉北野に遊び茶会を催し利休をして之を督せしめた、これより茶事大に興り競うて之を学んだ、利休に女あつて吟子といふ、秀吉黒谷の山径を逍遥中これを見て人をして利休を説かしめ、これを容れやうとしたが利休は吟子の既に婚約ある故を以てこれを辞した、秀吉心中含む所あり、旁々讒者もあつたので、十九年二月二十八日利休に死を賜ふ、利休已に命を拝し花を活け茶を点じ阿弥陀堂釜、鉢排茶碗及び石灯籠を細川忠興に授け、自製の茶匙及織条茶碗を門人宗厳に与へ数寄屋の床上に黙座し、従容として絶命の偈を賦し割腹して死す、時に歳七十一。

千利休の画像は、その百五十回忌に当り土佐光芳の画いたもの千家にあり、大徳寺竜峰禅師の語がある。

又、その少壮年代紹鴎に学んだ頃を描いたものに横山大観作『千与四郎』あり。この外、安田靫彦、菊池契月、島田墨仙等にその作がある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)