則天武后

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そくてんぶこう


画題

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解説

画題辞典

則天武后は唐の高宗の皇后なり、故荊州都督武士彠が女、年十四にして太宗に召されてオ人となる、高宗の時王后引いて後宮に入る、侫辨能く事へ昭儀に進む、既にして女を生む、后就いて弄す、昭儀窃に之を殺し、以て皇后の為す所として帝に讒す、帝即ち皇后を殺し、昭儀を以て皇后となす、昭儀明敏にして文史に渉猟し遂に政事に与り大に権を振ふ、高宗崩後一時其子哲を位に即けしが、後更に子且を立て自ら政を摂し唐の宗室を殲くす、之れが為めに物議騒然たりしも巧に賢臣を用いて事なきを得たり、後張柬之等によりて上陽宮に遷され、年八十二を以て崩す、亦支那の一女傑なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那唐の高宗の皇后、自ら周の金輪聖神皇帝と称した。井州文水の人、年十四、美貌を以て太宗に召された。其母これを見て歎いてゐると、天子に召さる亦福ではないかと、入つて才人となり、武媚の号を賜つた。太宗崩ずるや諸嬪と共に一旦は尼となつた。高宗立ち王皇后粛淑妃の寵厚きを見て之を嫉み、高宗の私かに武媚の容色に心を寄せてゐることを知り妃を遠ざけ之に代らんと企み髪を貯ヘて後宮に入り初めは巧みに后に仕へて居たが、故にその生んだ子を扼殺し罪を后に帰し帝を欺き、遂に后を廃せしめて之に代つた、そして帝が眼疾に苦しみ事を見ることが出来なくなつたので、武后初めて奏事を決した、時に顕慶五年である。これから武后は意のまゝに権勢を揮ひ、時に帝をも制したので、帝憤り、上官の儀と謀り之を廃せんとしたが事露はれ、儀は武后のために殺戮せられ、之より大権は悉く武后に帰した。世人、これを二聖と称した。そして苟も武后へ忤へば忽ち禍を免るゝことが出来ず、為に孝謙なる太子弘は毒せられ、代つて太子となつた賢も亦廃せられ、高宗歿して中宗立つやこれもまた廃せられ、武后は予王旦を立て親正殿に朝政を見た、茲に於て唐の宗室自ら危み、衆心漸く之を憤り、英公李敬業まづ兵を起して叛き死し、大宗の子越王貞、其子瑯琊王沖とまた兵を挙げたが成らず、却つて武后は唐の宗室大臣を誅し、国を周と号して皇帝となり予王を皇嗣とした、時に武后既に年六十を過ぎてゐた。其中内行漸く紊れ醜聞外に漏れるやうになつたので屡々殺戮を敢へてしその漏洩を弥縫し、一方ではよく人材を登用して国務に当らしめたので社稷は傾覆するに至らず、また仁傑の諌を聴きその薦むる処の張東之を用ひた。神竜元年武后の病むや東之兵を挙げ奸臣を誅し武氏を討滅し、中宗の位を復して唐室を再興し后を上陽宮に徒し則天大聖皇帝の尊号を上つた、武后、唐を改めて周としたこと前後十六年その年の冬遂に武后は波瀾の多い生涯を終つた。年八十二。

『芥子園画伝』にその画像を載せてゐる。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)