内野健児(新井徹)

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総合

概要

内野健児(うちの・けんじ 1899~1944)
詩人。前半生は植民支配下の「朝鮮」で、主に日本人詩人を中心とした日本語詩壇の興隆に力を尽くした。同時代の前衛文学とも呼応し、弱者へのヒューマニスティックな共感からプロレタリア文学へ傾向を深めて行くが、朝鮮総督府により妻・後藤郁子や弟・壮児らと追放される。後半生はプロレタリア文学運動に参加し、「新井徹」(あらい・てつ)という筆名のみを用いるようになった。

略年譜

出生から成人まで(1899~1920)

1899年
2月15日、長崎県対馬下県郡厳原町大字中村に、父・猪助、母・美年の長男に生まれる。姉・若菜、弟・壮児の三人兄弟。父・猪助は鶏知で商売に失敗し、朝鮮全羅北道全州市で製麺業を営む。
1916年
3月、長崎県立対馬中学校卒業。4月、長崎県の推薦により広島高等師範学校入学。この前後から短歌を作り始め『焔』という歌集に同人として参加。
1920年
3月、広島高等師範学校卒業。国語及漢文の教員として福岡県立鞍手中学校へ赴任。8月、短歌会「更紗」「桜草」同人となる。

朝鮮時代(1921~1928)

1921年
3月、両親の希望で朝鮮総督府へ勤務することとなり、忠清南道大田市大田中学校教諭となる。 7月、尾上柴舟の推薦で『水甕』社友となり平戸廉吉高橋新吉らと交友。
1922年
1月、大田市本町で「耕人社」を設立し『耕人』を創刊。恩師・下村千別の遺稿歌集『下村千別歌集』の取次を行う。 11月、大田駅で小泉苳三と会う。
1923年
7月、詩歌関連書を集めた「耕人文庫」の設立を計画。 9月、「耕人文庫」開く。 10月、第一詩集『土墻に描く』刊行。11月、『土墻に描く』発売禁止・押収。 12月、総督府警務局田中事務次官と面談し、詩集押収の理由を質問する。「一部抹殺」の条件付きで発禁処置が解かれる。
1924年
2月、『朝鮮公論』詩壇の選者となる(~1927年1月)。 4月、日本詩人協会の年刊詩集『左翼戦線』に加わるよう誘われる。
1925年
2月、詩話会委員により『日本詩集』への作品収録を推薦。 8月、詩人の後藤郁子と結婚。 9月、京畿道へ出向を命じられる。朝鮮公立中学校、ついで京城公立中学校[[1]]へ転勤。京城府船橋町に居住。生徒に湯浅克衛中島敦がいた。 12月、『耕人』終刊。
1926年
2月、内野宅で江口捨次郎上田忠男ら三名が発起人となり「京城詩話会」を創立、9日第一回京城詩話会を開く。会員20余名。8日、第二回京城詩話会を開き、詩の展覧会を行う。 3月13日、第三回京城詩話会が京城日報社会議室で開催。28日、第四回京城詩話会が修養団聯合本部で開催。 4月、第五回京城詩話会。 5月、朝鮮芸術雑誌『朝』創刊、文芸部を担当。8日、第六回京城詩話会を行う。 6月19日、第七回京城詩話会が京城日報社会議室で開催。金岸曙が「諺文に拠る詩壇の現状に就て」という題で話す。25日、『朝』二号で廃刊。 8月14日、第八回京城詩話会。23日、第九回京城詩話会。 9月4日、第一〇回京城詩話会。 10月、京城府新橋洞一四に転居。「京城詩話会」を「亜細亜詩脈協会」と改称し、機関誌『亜細亜詩脈』を創刊。編輯人・発行人となる。10日、京城帝国大学[[2]]に赴任してきた佐藤清の歓迎会と、『亜細亜詩脈』創刊を記念する会が行われる。『亜細亜詩脈』会員の洗剣亭への詩行に参加。 11月、亜細亜詩脈協会の支会である釜山詩学協会主催の「全鮮詩展」が釜山日報社で開催。
1927年
6月8日、亜細亜詩脈協会・真人社共催で川路柳虹若山牧水文芸大講演会が開催。14日、鐘路警察署高等課により『亜細亜詩脈』6月号が発売禁止・押収される。弟・壮児が短編「ハウ劇場」でドイツ語のインタナショナルを書いた部分が治安妨害に当たるとされた。 9月、亜細亜詩脈協会主催の全国詩人作品展覧会を京城で開く。 11月、『亜細亜詩脈』終刊。
1928年
1月、後藤郁子と二人で『鋲』(編輯兼発行人・内野郁子)創刊。 7月、総督府より京城公立中学校教諭を罷免され、朝鮮追放を宣告される。東京・世田谷区、次いで赤坂区へ転居。弟・壮児が同居。

プロレタリア詩人時代(1929~1944)

1929年
1月、東京の私立明星学園中学校へ勤務。 3月、両親が厳原から上京し同居。 8月、雑誌『宣言』創刊。
1930年
7月、第二詩集『カチ』出版記念会。 9月、プロレタリア詩人会が結成され、「新井徹」の名で書記となる。以後この筆名のみ用いる。 10月、『宣言』終刊。
1931年
2月、プロレタリア詩人会第一回大会に出席、新任執行委員の一人に選出され書記となる。 4月、「失業反対プロレタリア詩と絵の展覧会」に出品。 7月、第一回「戦旗の夕」に参加。 8月、日本プロレタリア作家同盟に加盟。 9月、第二回「戦旗の夕」に参加。10月、「失業反対プロレタリア詩と絵の展覧会」に出品。11月、「無産者病院の夕」に参加。
1932年
2月、雑誌『プロレタリア詩』終刊。
1933年
6月、『プロレタリア詩集』のことで遠地輝武とともに杉並署に検挙される。二ヶ月に渡り拘留され、後に死期を早める肉体的打撃を受ける。
1934年
2月、雑誌『詩精神』創刊。8月、『一九三四年詩集』の編纂委員となる。9月、「詩精神の会」に出席。
1935年
2月、『詩精神』一周年記念会開催。雷石楡詩集『砂漠の歌』に序文を書く。3月、『詩精神』懇話会に出席。5月、前奏社主催の詩人祭が解散を命じられる。6月、『一九三五年詩集』の編纂委員となる。11月、風刺詩人・漫画家からなる「サンチョ・クラブ」のメンバーとなる。12月、『詩精神』終刊。
1936年
1月、雑誌『詩人』創刊。4月、詩人クラブ第一回総会開催。8月、詩人クラブ八月例会に参加。9月、『年刊一九三六年詩集』の編輯委員となる。
1937年
6月、『詩精神』のことで中野署に検挙、二ヶ月間拘留される。8月、旧『詩精神』同人に招かれ神戸、瀬戸、小豆島、高松を旅行。10月、第三詩集『南京虫』が一部抹殺の上刊行。
1938年
11月、結核の診断を受ける。
1941年
12月、弟・壮児が検挙。
1943年
7月、中野区の結核療養所「浄風園」に入所。
1944年
4月12日、死去(享年四六歳)。

参考文献

  • 任展慧「朝鮮時代の内野健児」(『季刊三千里』第11号 1977・8)
  • 新井徹著作刊行委員会『新井徹の全仕事 内野健児時代を含む抵抗の詩と評論』(創樹社 1983・5・31)