信貴山

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しぎさん


画題

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解説

画題辞典

信貴山は朝護国子寺にして、真言宗の古刹なり、大和国生駒郡平群村信貴山にあり、信貴山歓喜院とも称す。延喜年中明蓮上人の開基なり、本尊は毘沙門天、俗伝には聖徳太子の勝利を祈りし時、髻中に収めし毘沙門天を祀りしものヽなりとす。元弘年中護良親王の居給ひしことあり、楠正成の母もこゝに祈りて正成を生みしものなりという。今の堂宇は豊臣秀頼の建立にして、本堂、護摩堂以下十数宇、懸崖に倚って立ち壮観なり。

本寺所蔵信貴山縁起は鳥羽僧正の筆にして、第一飛倉の巻(山崎長者)、第二加持の巻、第三尼公の巻の三巻より成る。淡彩にて画かれ大和絵巻中の代表作品の一と推さるべきものなり、好古小録にも「結構奇絶画力と共に凡手の及ぶ所にあらざるなり」と推称せらる、国宝なり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

信貴山は大和国生駒郡と河内国中河内郡とに跨る山で高さ千七百尺、その東腹には有名な朝譲国孫子寺がある真言宗に属し、歓喜院朝護国孫子寺といふ、世に信貴山の毘沙門を以て聞えてゐる、此山は聖徳太子が官軍を率ひて物部守屋を討つた処、初め太子の軍敗れて此山に入つたので、太子誓願する処あり山中で石櫃を発見し見れば多門天の銘が明に見える、そこで白膠木を以て四天王の像を造り、髻の中に入れて更に進み戦に勝つを得た、そこで其の石櫃の上に方一丈の堂を建立した、これが此寺の起源である、元弘三年六月には大塔宮護良親王も此山にとゞまり給ふたことがあり、南朝の忠臣楠木正成も其母此に祈願して生まれたので幼名を多聞丸と呼んだ、今の堂宇は慶長年中豊臣秀頼の造営にかゝるといふ。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)