けいせい仏の原

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けいせいほとけのはら


総合


歌舞伎

元禄十二(1699)年 京都都万太夫座初演 三番続 近松門左衛門

配役

梅永文蔵 初代坂田藤十郎 傾城今川 霧波千寿

梗概

当時東山にあった月窓寺開帳をあてこんだ作品。越前の国の梅永刑部には文蔵、帯刀という二人の子息がいる。長兄の文蔵が三国の遊女今川と慣れ親しみ、子までなしており、弟の帯刀は兄の放蕩ふりにつけ込んで家から追放してしまう。阿呆払いにされた文蔵は身をやつして紙衣姿となり諸国を放浪する。月窓寺にたどり着き、ある大名の下屋敷に忍び込むと、以前馴染んだ遊女奥州との馴れ初めを長々とおもしろおかしく語ってきかせる。おもいがけず、奥州に屋敷で再会を果たすが、許嫁の竹姫がやってきて二人に嫉妬する。その折り、悪人は文蔵をなきものにしようと企み、父刑部が殺されてしまうが、奥州のおかげで文蔵は生き延びる。 一方で今川は自分のために文蔵が苦労をしていることに心苦しみ、文蔵に会おうとするが、文蔵の敵で帯刀と組んで文蔵を追放した介太夫は実は今川の実父だということがわかると、二人はその悪い巡り合わせに悲しむ。しかしながら、介太夫は帯刀と組んだことを悔いて、帯刀を討つと、文蔵は許してやる。一同、お家安泰を祝って総踊りで終幕。

仕形咄と身ぶり

【資料1】

「仕形落ち」で結んだ話が、いくつか目につく。これから思えば、他の咄では、『私可多咄』に見る、一一に仕形がわかる如くに作ってないのは、かえって専門家には普通となっていたからである。(…中略…)元禄の仕形咄は今日の上方落語のそれのように、動きの多い、又動きの大きい、はでなものではなかったかと思われるのも亦、武左衛門らの咄本から想像される処である。(中村幸彦「仕形咄考」、「語文研究」三十七号、一九七四年)

【資料2】

抱き合う、胸ぐらを取る、錫杖を振り立てる等々の極めて具象的な物真似動作であって、単にリズムに乗った、あるいは何等かの気分を情緒的に表わす非物真似的な動作ではないということである。(…中略…)ここに展開した長咄は、話し手が咄の中に登場するさまざまな人格を、具象的な物真似の身振りと対話の多い話術とを以て表現する演劇と見ることができる。(松崎仁「元禄歌舞伎の仕形咄」、「芸能文化史」一九七九年、芸能文化史研究会)

ひとり狂言

【資料3】

坂田藤十が佛の原の文蔵の長咄の形をもつて.仕立た長物語思入.こなし入レてのひとり狂言.(萩野八重桐評、享保十一年三月『役者拳相撲』京)

【資料4】

古坂田氏が佛の原のひとりしての長咄(榊山小四郎評、享保二十年正月『役者初子讀(京)』)

【資料5】

源左衛門たゞひとりざしきに残り.物いはす口おしがる思ひ入 ひとりきゃうげんしか/\有 はらをきらんと思ひきり.はをりをしきはだぬぎ.刀をぬいてつきたてんとしけるが.又しあんしてこしかたゆくすゑ身のうへ人のうはさちゞにみだれ刀をなげすてなきゐたり.(絵入狂言本・貞享四年『あすか川』)

【資料6】

十町其中にて[欠]訥子は頼兼にて屋形いで、やつしすがた、浅黄頭巾、袖なし羽織にて、くらやみにて全盛のくるは咄し、たゞひとり芸にて大当り成し、此狂言は、京都にて、むかしの名人坂田藤十郎、傾城柳の糸(ママ)狂言大当りにて、三度迄出して当りを取しなり、それを、訥子は工夫を以、当世に合ふやふにさりやくして勤し故、少しも骨を折らず、口計きゝて当りを取しなり(文化二年『中古戯場説』澤村宗十郎評)

【資料7】

此度二の替りけいせい壬生大念佛に.高遠民弥となられ.かす買のやつし何とおもしろふはないか.殊更酔てけいせい町へいた心にて.樽をあい手にひとり狂言.どうふもかふもいはれた事ではない.(元禄十五年三月『役者二挺三味線(京)』坂田藤十郎評) かつ姫はこしもと共を引つれ出給ひ.「いつもくる酒のゑいか」とやうすを見給へば.かすかいはあみがさぬいで下にゐ.酒だる出し「太夫様じやぐ.大夫様のおなかゞわるいやらどぶぐする」と.ちやわんへ酒をうけ.「太夫様がちやわんに八ぶんめにならしやつた」とつつとほし.手だるをさかさまにして.「さあ 道中じや/\」と.たるをあゆませ.「太夫様のゑぢかりまたじや.あげや入 それ ふとんをしけ」と.あみがさをしき.たるをのせ.「さあ太夫様 とこ入じや.ねませう」と.たるをいだきねころび.たるの手をいらい.「太夫さまのみゝは長い.是はめいよな 下にあながあいて有.いつもの穴じや」とだいてね.しやうだいなくもゑいふしゐる. (絵入狂言本・元禄十五年京都万太夫座『けいせい壬生大念仏』)

【資料8】

ある時八月十六日.いさよひの月をみんと.あまたの女郎.打まじり歌をうたふ.しやみを引おもしろさ千夜を一夜とあそふ 女郎の中に.すくれ あふしうとおれとは.ふとんを引わめく.やうくさかづき.しつまれば女郎はきをとをし.かつてへ入.扨あふしうと.ふたりよぎ引かふりだかれあふ時.あふしうがやさしいことをいふた.あのむかしより水もらさじといふことは.何とした事ととふ.おれがいふはさればふたりの中に水がもれるか.ためしてみんと。まくらもとにかんなべに酒があつたをふたりだかれてゐる上へ.たふくとつぎかけたれ共少も下へこぼしませなんだ.其時あふしうがいふは.扨もふたりの中は水ももれぬやうに.つつくりとあふたとうれしがる.おれもうれしく.あふしうがせなかを三つ.ほとくとたゝき.此世はかはる事ない.やがてうけ出して.此ことく中をよふせんと.いふたれば.只みらいのことをあんじますると.涙をはらくとこほす.其涙を.ゆびのさきに付て.ねぶつてみれば.あまさ.さたうのごとし(絵入狂言本[上本]・元禄十三年京都万大夫座『けいせい仏の原』)

居狂言

(1)藤十郎の得意芸

【資料9】

只此人居狂言が得物.當麻万燈供養.はりたての元甫との咄の格度々也.それ故他国衆.又はまんざらの素人はおもしろからず(元禄十五年刊『役者一挺鼓』坂田藤十郎評)

(2)仏の原の長咄と居狂言

【資料10】

卯ノ秋三日替の佛原の梅永は.坂田の格を以てせられしゆへ.此人一ぶんの居狂言よいと.打つけては目利しがたしまつは京女のすく風. (正徳四年刊『役者目利講(京)』大和山甚左衛門評)

【資料11】

狂言によつて委ういひほどきせぬばならぬことが有.居なりの長狂言は.見物がたいくつするとぬかすが.古坂田氏が佛の原のひとりしての長咄.古篠塚次郎左がけいせい雄床山の百姓をせぶりどりせぬといふ.一人してのいひ分などは.見物衆がたいくつなことはおいて.こゝ一種じやと悦んだを見なんだか.長狂言が悪ふない是が證據じや(享保二十年『役者初子読(京)』榊山小四郎評)

(3)居狂言の身ぶり

【資料12】

但シ居狂言を得給ひ.とんづはねつのはたらき狂言不得手と見へたり.(…中略…)居狂言上手にしてとんづはねつのはたらきぶたんれんとは心得がたし.(元禄十四年刊『役者略請状』坂田藤十郎評) ※「當麻万燈供養」…元禄五年京都村山座

【資料13】

[京下りすいだて]めつたによいくとの合點参らぬ.若いと申すではないが.去顔みせよりせらるゝ程の事.口先計の口上にて.からだのはたらきついに披見いたさぬ.すれば口上手といふもので.藝がよいとはほめられまいと存る[北組の中より]ヤイべらぼめ.とんだりはねたりすれば上手と思ふか.我に相應のかるわざしばゐを見よ.朝から晩までとんだりはねたりする程に.今に人々の名人ともてはやす.坂田山下がぐはたくはねたか.皆居狂言を賞翫するとおもへ(享保五年『役者三蓋笠(坂)』民屋四郎五郎評)

那須の与一の仕形はなし

江戸

【資料14】

江戸のしばゐでは.異見するに浄るりをかたらせ.人形のごとく.仕形でするを見やらぬゆへしや(享保九年刊『役者辰暦芸品定(江)』市村玉柏評)

【資料15】

次の替かげ清に.さゝきの四郎と成.頼朝公のまへにて重忠新五郎と武道のせり合いよし.さつま太夫が上るりに合せ八嶋の所作.弓矢取てなすの與一の仕方諸人目をおどろかし給ふ(宝永四年刊『役者友吟味(江)』市川団十郎評) 此度初のお下り.山村座の顔みせくれはの前と成.しづのめ姿にしきさらさるゝ所作事よし.後に頼朝公の御前にて八島の物語.上るりに合せての所作でけました(宝永四年刊『役者友吟味(江)』袖崎香織評)

【資料16】『大和守日記』

○寛文六年十二月二日 庄左衛門も色々舞中、安宅道成寺語、よし原与市語、紅葉狩、戌中刻済

○延宝五年十二月二十四日

馳走に狂言あり、小うた九兵衛才覚して同道、簾屏風にて見物

(…中略…)

一、なすの与一 しかた有

○延宝六年三月

しかたの与一 吉十郎、藤兵衛、小源太(子役)

○延宝七年九月

△おとり次第 恋は山のて、上の山、あたこ嵐、酒くとき与作こんから、しやきり、次郎右衛門、清九郎、せりふの上、なすの与一しかた

○延宝七年九月十九日

夜ニ入テ奥お幾へおとり見する、簾掛内ニ楽屋後段振舞、清九郎、二郎右衛門、せりふの上、吉原万歳、祭のならしとてする(…中略…)次郎右衛門、清九郎、せりふの上、なすの与一しかた

○元禄八年五月八日 今夕柴ニ在候喜作と云咄にて渡世の者召て七つ過より料理の間にて咄、不閑あいさつ、扈従詰所にて聞、子共も出、亀之丞は少…気とて不出、咄目録とて出(…中略…)

一、登り八島仕かた ※『松平大和守日記』の引用は『日本庶民文化史料集成 第十二巻』底本:北方文化博物館蔵写本 朝倉治彦校訂から引用した。

京都

【資料17】

又いわくいわさのちほねと八嶋の軍物語此所こしかけて居ながら小舞がゝつての物語ならは咄にせいあつておもしろかるべし口せきのよき計にて身がいごかぬゆへぬらりとして情なし(『役者大鑑』(岩瀬本)山下半左衛門評)

嵐三右衛門との比較

【資料18】

其うへやつしをよくあてらるゝといへども.坂田藤十郎などゝ.さりし佛の原の藝をくらべてみれば.はるかちがふたことゝ.大坂衆迄も.京で見てのさた.(元禄十二年『役者談合衝(坂)』嵐三右衛門評)

【資料19】

①霜月晦日切狂言助六心中.則此人助六と成親にかんどうの身.紙子姿にふるあみ笠しよんぼりとうつりよし.あげやの内へ入身の上ばなし.先嵐殿佛の原の咄の格.(宝永四年三月『役者友吟味(坂)』杉山平八評)

②卯ノ秋三日替の佛原の梅永は.坂田の格を以てせられしゆへ.此人一ぶんの居狂言よいと.打つけては目利しがたしまつは京女のすく風.(正徳四年『役者目利講(京)』大和山甚左衛門評)

【資料20】

去年佛の原ニ梅川文蔵其儘の中嵐でござつた.京より下りし目では大和山甚左衛門が取方じやといへば.それは目當がちがふ.京ニは坂田風を好.當地はとかく嵐でなければおかしうない.此方の中間では竹嶋より嵐と思ふに.位も中白とあるが合點がゆかぬよ(正徳五年『役者懐世帯(坂)』嵐三十郎評)

【資料21】

しかし口拍子よき事佛の原の身のうへ物語にてしるべし.申は外言なれ共.あのごとく口のまはる役者が三ヶの津に二人とあろふか.坂田藤十郎咄はもつ共らしくしゆしやう也此人の咄ははなぐしくおもしろくおかしく存る.(元禄十二年『口三味線役者舌鼓(坂)』嵐三右衛門評)

【資料22】

難波にて嵐三右の此所の長物語を.此人より大きに出来たるやうにいひしは.花を専にせられし故に.おもしろ過たり.此人のは尤らしう實めきて聞え侍る(元禄十五年『役者一挺鼓』坂田藤十郎評)

【資料23】

中にほうかぶりしてくつわがかどへ行.かふろをまねき.太夫にあひたいといふてやり.其へんじの間上下を見まはし.人にとがめられぬやうにあるいてゐらるゝふぜい.太夫内でせつかんにあふおとをきゝ.あせり身をもがゝるゝ有様.京で藤十郎殿とおなじ役.坂田殿は其身うごかずして思い入一しゆでいたさるゝ.此人は身ぶりであせらるゝ(元禄十三年三月『役者万年暦(坂)』嵐三右衛門評)※元禄十三年二の替「けいせい胎内捜」についての評判

参考文献

  • 中村幸彦「仕形咄考」(「語文研究」三十七号、一九七四年)
  • 松崎仁「元禄歌舞伎の仕形咄」(「芸能文化史」一九七九年、芸能文化史研究会)
  • 鳥越文蔵「『けいせい仏の原』考」(『元禄歌舞伎攷』、一九九一年、八木書店)