ArcUP0473

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総合

恋合 端唄津くし 契情かつらき 名古屋山三

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画題:「恋合 端唄津くし 契情かつらき 名古屋山三」


絵師:三代目豊国

版型:大判/錦絵

落款印章:任好 豊国画(年玉枠)

版元名: 若狭屋 与市

改印: 酉二改

配役: 契情かつらき・・・三代目沢村田之助、名古屋山三・・・初代河原崎権十郎

上演年月日:万延二年(1861)二月 「鶴春土佐画鞘当」

上演場所:江戸(見立)


翻刻

本てうし

あさくともきよき

ながれのかきつばた、

とんでゆききの

あみ笠をのぞいて

きたかぬれつばめ

かほがみとうはないかいな


かへうた

花のくもうつるながれの

すみだ川、土手をゆきゝの

つばくらはつくばをきたか

ふらが根の雁のたよりじや

ないかいな


語彙

あみ笠…近世の初期には吉原・島原など公娼街に通うのにこれを用い、花街の入口には、これを貸す編笠茶屋などもあった。

すみだ川…江戸の東部を流れる川。河口は江戸湊としてにぎわい、江戸の経済・文化に寄与し、沿岸には、問屋・酒屋・大名屋敷が立ち並んだ。また、上は吉原、下は深川など花街への水運も開かれていた。

つばくら…「つばくらめ」の略。「つばめ」の別称。

つくば…常陸国筑波郡地方。筑波山西南の地。

雁のたより…「雁のふみ」と同じ。手紙。雁の使いによってもたらされた文。

出典:中川幸彦、岡見正雄、阪倉篤義 『角川古語大辞典』 角川書店 昭和17年6月

見立絵

見立絵は広く知られた歴史・古典・歌舞伎・物語などの内容や人物を当代の風俗にして描くものであるが、芝居絵では、まだ実際の舞台の分からない新狂言や、その俳優がまだ扮したことのない役柄を想像して描くこともその範疇に含める。

出典:菊池明 花咲一男 『原色浮世絵大百科事典』 第11巻 歌舞伎・遊里・索引 大修館書店 昭和57年11月10日



題材

原作は文政6年3月江戸市村座に鶴屋南北の書き下ろした狂言で、山東京伝の『昔語稲妻表紙』に出てくる不破伴左衛門、名古屋山三の世界と、別に巷説で名高い白井権八、三浦屋小紫、幡随長兵衛の世界とを、「ないまぜ」にした長い芝居である。稲妻は『昔語稲妻表紙』を暗示したもので、通称を『稲妻表紙』『鞘当』、別名題として『名古屋帯雲稲妻』『廓模様比翼稲妻』『濡乙鳥比翼稲妻』がある。

出典:藤野義雄 『南北名作事典』 桜楓社 平成5年6月5日        戸坂康二他 『名作歌舞伎全集 第9巻 鶴屋南北集一』 東京創元社 昭和44年4月25日

※尚、この見立て絵の万延二年に上演された題目は『鶴春土佐画鞘当』となっている。


あらすじ

『浮世柄比翼稲妻』

名古屋三左衛門と白井兵左衛門を殺した不破伴左衛門は三左衛門の子山三と相愛の腰元岩橋に恋慕して失敗し、山三もろとも浪人する。兵左衛門の子権八は主家横領をたくらむ伯父本庄助太夫を討ち出奔。蛇遣いで顔にあざのある娘お国は絵姿の山三に惚れる。傾城葛城となった岩橋は山三の浪宅を訪問し、山三の下女となったお国は彼の危難を救って死ぬ。夜桜の吉原で伴左衛門と山三が鞘当し争うところを長兵衛女房お近が仲裁。伴左衛門は山三と葛城の密会を出し抜き、葛城と枕を交わすが、実の妹と知れる。山三が伴左衛門と思って討ったのは身代わりの葛城であった。

出典:下中直人 『歌舞伎事典』 平凡社 1983年11月8日


登場人物

名古屋山三…名古屋山三郎(?~一六〇三)は、出雲のお国とともに歌舞伎の始祖に擬せられている人物。名護屋山三とも書く。蒲生氏郷の小姓として奥州攻めに従い、十五歳で一番槍の手柄を立てたといわれる。武勇にすぐれ、浮流遊芸にも通じたハンサムな伊達男で、当時のかぶき者の一人。

葛城…名古屋山三との不義があらわれ、佐々木家を追放された腰元岩橋は、浪人している山三に貢ぐため、吉原上林の傾城葛城となる。もと同家中で、今は白柄組の寺西閑心と変名している不破伴左衛門に横恋慕され、暗闇で山三と思い込み誤って枕を交わしてしまうが、のちに生き別れの兄妹であることが判明。伴左衛門の身替りとなり、待ち伏せしていた山三に斬り殺される。

出典:古井戸秀夫 『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月10日


配役

名古屋山三…初代 河崎権十郎 (後の九代目 市川団十郎) 天保9年(1838)~明治36年9月13日(1903) 享年66歳。

7代目市川団十郎(のち5代目海老蔵)・母ための5男として江戸堺町に生まれる。兄弟に8代目団十郎・6代目高麗蔵・7代目海老蔵・猿蔵・幸蔵・8代目海老蔵がいる。うまれて7日目にして江戸木挽町河原崎座の座主6代目河原崎権之助の養子となり、舞踊・絃歌・書画・茶花などの修業をする。はじめ河原崎長十郎と名乗り、6才の天保4(1843)年5月浅草猿若町に河原崎座が移転の舞台開きに千歳役で勤める。嘉永5年9月将軍家に男子が生まれ長吉郎と命名されたので《長》の字を憚って権十郎と改める。明治元(1868)年9月、養父の河原崎権之助が自宅で強盗に切られて横死。2年3月、市村座「蝶三升扇加賀製」に7代目河原崎権之助を襲名し初座頭となる。7年7月東京芝新堀に河原崎座を再興、「新舞台巌楠」に河原崎権之助を山崎福次郎に譲り、9代目市川団十郎を襲名、備後三郎・和田正遠・楠正成の3役を勤める。お家芸を本領として、時代物・世話物に適し、立役・適役・女方を兼ねた。風采が良く、口上・台詞もしっかりしていて風格があり、非常に人気が高く不世出の大役者と持て囃された。文才があり書画骨董にも長じ、社交家であった。


契情葛城…三代目 沢村田之助 弘化2年(1845)~明治11年7月7日(1878) 享年34歳。

5代目沢村宗十郎の次男。初め沢村由次郎と名乗り、嘉永2年(1849)7月江戸中村座「忠臣蔵」で初舞台を踏む。安政6年(1859)年正月、中村座「魁道中双六曽我」で3代目沢村田之助を襲名。文久元年(1861)2月中村座「御国松曽我中村」と市村座「鶴春土佐画鞘当」に掛け持ちで勤め大好評を得る。この頃、田之助髷や田之助襟、田之助下駄などが流行する。性格は勝ち気で喧嘩っ早いところがあったが、美貌と才気に富み、髪形やファッションにおいて時代の先端を行き、たくさんの流行を作った。当時の美人画の顔は、田之助に似せたという。慶応元年に脱疽を患い、片足を切断するも舞台を勤め上げる。明治5年(1872)正月村山座にて「国姓爺姿写真鏡」を最後に引退する。しかし、その後も女方を勤める機会を得て大坂や京都などで舞台に立っていた。世話物に適し、口跡・台詞・口上に音声が良く、立役も兼ねたが、女方を本領とし、将来を期待される役者であったが、病気が再発し明治11年春に狂死した。

出典:野島寿三郎 『新訂増補歌舞伎人名事典』 日外アソシエーツ 2002年6月25日


台本

※文政六年三月市村座の「浮世柄比翼稲妻」の台本である  

     第一番目 六建目大詰 吉原夜桜の場


    ト唄になり、両人行違ひて、互に思ひ入。行違ひに両人鞘当てる。唄切れる。伴左衛門、山三が鞘をキツと捕へる。鳴り物變つて、両人思ひ入。

        (中略)

伴左 然らば斯様申しても、承引なくば是非が無い。其時こそは看板の、雲に稲妻、剣の光り。

    ト刀へ手をかくる。山三一寸留めて

山三 貴公の剣の稲妻の、其前かたに山三めが、身に降りかゝる濡れ燕、花の吹雪の仲の町。

伴左 色ある中に此出会ひ。是非とも身共が

    ト抜きかけるを留め

山三 決してならぬ。

伴左 ならぬとあれば、眞剣の

山三 相手になつて

    ト両方抜きつれ、立廻つて、キツと成る。誂への鳴物。清掻入り。両人切結ぶ。立廻りよき切ツかけに、向うより長兵衛女房お近、派手なる姿、衣裳、ふら提灯を持ち来り、

    此體を見て、此中へ入り、両方を留める事。両人是にかまはず切結ぶゆゑ、有り合う大提灯を取つて、双方の白刀を押へ、屹度見得。

伴左 いらぬ女の支へ立て。

山三 怪我せぬうちに、退いた/\。


出典:坪内雄藏 渥美清太郎 『歌舞伎脚本傑作集』 第二巻 春陽堂 大正10年3月15日



名古屋山三の着物について

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不破の着物に稲妻の模様を用いることは以前からのことであるが、山三の衣裳に濡燕を用いたのはこのとき京伝の工夫であるといわれる。したがって写楽や豊国が、寛政期に描いた名古屋山三の衣裳にはこれがない。

出典:吉田暎二 『浮世絵事典』<上巻> 緑園書房 昭和40年6月30日

京伝著の『本朝酔菩提』には「名古屋山三郎に扮する衣裳には、昔より定まりたる模様なし。僕、稲妻表紙前篇著述の刻、稲妻の模様俳諧の句にもとずきぬれば、山三郎の衣裳も俳諧の句にもとずきてこそと思ひ寄せて、傘にねぐらかさうよ濡燕といへる晋子の句をとりて、出像の模様に、春雨に燕の飛かふさまを画かしむ。」と説明している。

出典:藤野義雄 『南北名作事典』 桜楓社 平成5年6月5日

出典:切畑健 『歌舞伎衣装』 京都書院 1994年3月20日(画像)


髪型について

立兵庫(伊達兵庫)…傾城特有の髪型で、髷が大きく広がり、これに二十種以上の櫛や簪などのさし物をさす。女方の髪型として最も豪華なもの。

出典:菊池明 花咲一男 『原色浮世絵大百科事典』 第11巻 歌舞伎・遊里・索引 大修館書店 昭和57年11月10日



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まとめ

この絵は名古屋山三が濡燕の衣裳を着ていること、深編笠を持っていることから「鞘当」の場面であると推測した。しかし、台本ではこの場面は吉原仲之町で名古屋山三と不破伴左衛門が出会い、鞘当ての争いになったところ、長兵衛女房お近が中に入って留める、というものである。よって、この見立て絵ではお近が葛城に変わっている。この「鞘当」の場面は浮世柄比翼稲妻の中でも大詰とされる部分であり、『南北名作事典』によると七五調美文のセリフ、きまりきまりの見得、下座音楽などストーリーとは関係なく観客の心を掴むことの出来る場面であるため、一幕物として独立して演じるようにもなり、セリフを改めたり、留めに入る役も一座の都合でその時々に応じて変えていたという。この見立て絵では留め役が葛城となって描かれたものではないだろうか。 また、岩橋が吉原の傾城葛城となってから名古屋山三と会う場面は大きく分けて二つある。一つ目は葛城が花魁道中をしながら山三の家を訪ねてくる場面である。この場面では、下女お国が編笠茶屋へ、濡燕の小袖を預けたため山三は濡燕の衣裳を着ていない。二つ目は伴左衛門と葛城が情を交わしてしまう前の密会の場面である。この場面も山三は頭巾を被り、占屋の恰好をしているため濡燕の衣裳を着ていない。以上のことからも、見立て絵は「鞘当」の場面ではないかと考える。

しかし、歌舞伎辻番付によると万延二年に上演された「鶴春土佐画鞘当」の留め役は男であり、役者は坂東亀藏となっていた。また番付や正本写しにも上記の通り、濡燕の小袖を着た山三と葛城が会うような該当する場面はない。このことについて、上演される前の番付や正本写しでは留め男にしていたが、見栄えの点などから実際の上演では、老いた留め男から美しい葛城を留め女に変更したとも考えられる。また恋合端唄津くしは男女の色恋をモチーフにした作品であることから、作品では葛城に変えたとも考えられる。

出典:藤野義雄 『南北名作事典』 桜楓社 平成5年6月5日 出典:歌舞伎辻番付



参考文献

・中川幸彦、岡見正雄、阪倉篤義 『角川古語大辞典』 角川書店 昭和17年6月

・坪内雄藏 渥美清太郎 『歌舞伎脚本傑作集』 第二巻 春陽堂 大正10年3月15日

・古井戸秀夫 『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006年5月10日

・野島寿三郎 『新訂増補歌舞伎人名事典』 日外アソシエーツ 2002年6月25日

・下中直人 『歌舞伎事典』 平凡社 1983年11月8日

・藤野義雄 『南北名作事典』 桜楓社 平成5年6月5日

・戸坂康二他 『名作歌舞伎全集 第9巻 鶴屋南北集一』 東京創元社 昭和44年4月25日

・吉田暎二 『浮世絵事典』<上巻> 緑園書房 昭和40年6月30日

・菊池明 花咲一男 『原色浮世絵大百科事典』 第11巻 歌舞伎・遊里・索引 大修館書店 昭和57年11月10日

・切畑健 『歌舞伎衣装』 京都書院 1994年3月20日(画像)

・アートリサーチセンター http://www.arc.ritsumei.ac.jp