ArcUP0449

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総合

江戸土産浮名のたまづさ 小姓吉三 八百やお七

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絵師:3代目豊国

判型:大判/錦絵

落款印章:好にまかせ 七十九歳豊国筆

版元名:近江屋 久次郎

改印:子二改

上演年月日:文久4年(1864)2月

上演場所:江戸(見立)


〈題材〉

八百屋お七

〈概要〉

天人に似た美女と評判の八百屋の娘お七は、吉祥寺の寺小姓吉三と恋仲にあるため、範頼公への妾奉公を嫌がり逃げる(吉祥寺の場)。吉三は、亡父曽我十郎祐成のためにも武士道を立てたいと出家を嫌がるが、お七のもとにひそかに訪れ、剃髪をする決意を告げると、名残を惜しんで寺へ帰る。吉三が今宵中に剃髪出家すると聞き、気が動転したお七は、夜になって閉ざされた木戸を開けてもらいたい一心で、櫓に登り太鼓を打つ(八百屋の場)。仁田四郎の温情ある取り調べにもかかわらず、お七は問われたことに正直に答えてしまい、死罪が決まる。しかし鈴ヶ森で処刑の寸前に赦免される。


(参考:『歌舞伎登場人物事典』白水社 2006・5・10)


〈登場人物〉

小姓吉三(吉三郎)

モデルは寺小姓の生田庄之助(一説に山田左兵衛)である。吉三郎は吉祥寺門前に住むならず者で、火事場泥棒目的でお七に放火をそそのかしたと伝える伝説がある。

八百やお七

実在の人物。実説によると、天和2年(1682)12月28日の江戸大火で類焼し、旦那寺(駒込正仙寺、または円乗寺)に避難した本郷の八百屋お七(?~1683)は、寺小姓の生田庄之助と恋仲となった。新築の家に帰宅後、家事があればもう一度庄之助に会えると思い込んだお七は、翌年の3月2日夜に放火するも、すぐに消し止められ、捕えられて火刑に処せられた。


(出典:『歌舞伎登場人物事典』白水社 2006・5・10)


〈配役〉

十三代目市村羽左衛門

-5代目尾上菊五郎-

天保15年6月4日(1844)~明治36年2月18日(1903) 享年60歳 12代目市川羽左衛門・とわ(3代目尾上菊五郎の次女)の次男として江戸浅草に生まれる。初め2代目市村九郎右衛門と名乗る。嘉永2年4月、市村座「恵閏初夏藤」に鷲の者橘の市松役で初舞台を踏む。嘉永4年正月、13代目市村羽左衛門を襲名し、明治元年8月に5代目尾上菊五郎を襲名、弟に市村羽左衛門を譲り市村座を相続させる。明治36年2月脳溢血のため死去。明治の一代名優と云われた。

三代目沢村田之助

弘化2年2月8日(1845)~明治11年7月7日(1878) 享年34歳 5代目沢村宗十郎の次男。兄に4代目高屋高助がいる。初め沢村由次郎と名乗り、嘉永2年(1849)7月江戸中村座「忠臣蔵」8段目道行「千種花旅路嫁入」に子役として遠見の小浪役で初舞台を踏む。慶応元年(1865)、脱疸となり切断して舞台を勤める。明治11年春狂死した。世話物に適し、口跡・台詞・口上に音声が良く、立役も兼ねたが、女方を本領とし将来を期待される役者だった。


(出典:『歌舞伎人名事典』日外アソシエーツ 2002・6・25)


〈モデルとなった実話〉

八百屋お七の事件は「天和笑委集」「江都著聞集」などに真相が記されている。

「天和笑委集」

八百屋市左衛門の娘お七は、年は16ですこぶる美人であったが、天和元年12月28日に類焼したので、一家は正仙院に避難した。この寺に生田庄之助という17になる美少年がいて、2人は恋に陥る。翌年正月25日に新宅ができてお七は帰ったが、2人の思いはつのるばかりで、家が焼けたらまた逢う機会があろうと考え、お七は自分の家に放火をする。それが発覚してお七は奉行所に引かれ、3月28日に火刑に処され、庄之助は高野山で出家を遂げる。

「江都著聞集」

お七の父は八百屋太郎衛門、避難したのは小石川の円乗寺、恋人は山田左兵衛となっている。吉三郎というのは吉祥寺門前にいた無頼漢で、お七をそそのかして放火をさせた犯人である。奉行はお七の心情に同情して、15歳未満ということにして減刑しようとしたが、吉三郎の申し立てによって、やむを得ず天和2年2月死刑にした。


とかなり相違はあるが八百屋お七物は実話を元とした物語である。


(出典:『対訳西鶴全集3 好色五人女・好色一代女』明治書院 昭和49・5・25)

場面について

この場面は『其往昔恋江戸染』の中の吉三がお七に明日出家をすると言いにひそかにやってきたときの場面ではないかと推測される。


今回の「浮名のたまづさ」の場面では、吉三が扇を持っていて、髪の方に手をやるお七と共に描かれている。

立命館大学アートリサーチセンター浮世絵検索システムや早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システムで確認できるかぎりでは以下の絵がそれに当てはまると言える。


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下女のお杉、お七、吉三の三人がそろって登場する場面は上記に述べた吉三が出家を告げに来た時だけである。

今まで母親に反対されてきたが、やっとお許しがで、今から2人で盃をあげようとしていたところ

お七は吉三が明日出家すると言う事を吉三から言い渡され、びっくりして声を上げて泣いてしまう。そんなお七を気の毒に思った吉三は

出家は嘘だ、と嘘をつき、編笠を持って「また明日会いましょう」と、お七に伝えるが

お七は「そのようなものは」と言いながら笠を放り投げ、吉三に抱きつく。そしてそのまま濡れ場へ。

この後、所化妙伝が明日ではなく、今宵のうちに出家をすると2人に告げ、吉三を連れていく。

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「浮名のたまずさ」及びこれらの絵は、濡れ場の前の場面ではないか。


『好色五人女』と浄瑠璃『八百屋お七』との比較

先程も述べたが、八百屋お七事件は世の話題となっていたためか、お七の物語は早くから潤色され、様々な文学が生まれた。お七の処刑から3年後の貞享3年(1686)には、まず西鶴が『好色五人女』の中に「恋草からげし八百屋物語」でお七の事件を小説化した。この小説は浄瑠璃、歌舞伎のお七ものに多大な影響を与えた。その『好色五人女』では、


吉三はお七恋しさのあまり病気になり、前後不覚に陥り、夢うつつな状態であったため気を使い、周囲の者が上手く辻褄を合せてお七が助命したと吉三に伝えていた。そのために吉三は、お七の最後に姿を現すことができなかった。そして丁度お七の百ヶ日の日に吉三は枕から起きあがり、お七が死んだことを知り、自害しようとするが思い止まり、出家することになる。

となっている。


また、浄瑠璃におけるお七物の中心をなす、正徳5年(1715)頃の『八百屋お七』(『八百屋お七恋緋桜』)では


吉三が刑場の地に姿を現し、「お七が罪を犯したのは私の為でございます。どうぞ共に殺して下さい」と役人に言うが、追い返されてしまい、「どうせ生きていられない私の命であるから、冥土の道づれとなるために、私が先に死んでまっていよう」と腹を一文字に切って死んでいった。


とあり、


『其往昔恋江戸染』では梗概で記したように、処刑の寸前に赦免される。


と結末は様々である。


ここまで様々な憶測が飛び交い、様々な結末があることから

この男女の恋物語(事件)の結末が当時の人々に衝撃や大きな影響を与えたと推察される。

それは現代人にも同じことが言えるのではないだろうか。

お七が丙午であったという有名な話があるが、それゆえに丙午の生まれの女性は気性が荒いなどといった迷信が信じられるようになり、

現在でも丙午の年の出生率が低い。

昭和41年生まれ(丙午)がその例である。(厚生労働省ホームページ 出生 http://www1.mhlw.go.jp/toukei/11nengai_8/brth.html

今回、お七も物を数多く取りあげることが出来なかった。今後の課題としては、今回取り上げられなかったお七物を深く追求することである。