足利尊氏

提供: Open GadaiWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

あしかがたかうじ


画題

画像(Open)


解説

画題辞典

足利尊氏に足利初代の将軍なり、初めの名は高氏、又太郎と称す。下野足利の人、源義家の裔、父に貞氏といつた、代々下野に在り、名族として北条氏と婚を結びて勢熾なり。元弘の役、北条氏の命により軍を出せしが、背きて官軍に従ひ、六波羅を亡ぼし、功を以て建武中興の際に正三位参議鎮守府府軍、武蔵常陸下総の守護となる。実に勳功第一に推されたるなり、然れども更に大志を懐きて天下の武権を手中に収めんと期し、且つ護良親王がオ幹あり聲望あるを忌みて之を却け、建武二年遂に勢を恃みて鎌倉に反く、後醍醐天皇怒りて追討の軍を発せしが、悉く之を破りて西上し京都に入る、茲に一たび楠正成等に敗られて西海に走りしも、再挙大兵を以て西より京都に逼り、天皇の叡山に遁るに及び私に光明天皇を立つ、是れ南北両朝分立の初めなり、之より北朝の天皇を奉じて南朝に抗し、楠正成を討ち新田義貞を破りてその一族を殲亡し、天下の兵権を収め足利十三代の基を開く。正平十三年歳五十四を以て癰を患いて薨ず。尊氏器宇弘裕機略雄大、事に赴きて緩漫及ばざるが如きも信賞必罰人を畏服せしむ、深く仏教に帰依し、就中夢窓国師に帰信して奉ずる所極めて厚し。又地蔵像を画きて日課とす、その画の伝ふるもの少からず、尊氏画像にて真を写したりといわるゝものに左の数種あり

鎧下直垂喉輪及脇楯着用馬上図(尾張地蔵院所蔵国宝)

被髪甲を着せず冑のみ着用馬上抜刀を肩にせる図(京都守屋孝蔵氏所蔵)

右二種『集古十種』所載なり

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

足利尊氏は初名高氏と呼び、又太郎と称した、後醍醐天皇諱を賜ひ、尊氏と改めた、下野の人、源義家の裔にして、義家の子義国の長子義重新田氏となり、次子義康足利氏となる、代々北条氏の女を娶り勢ひ盛であつた、父を貞氏と云ふ、元弘元年北条氏の命を受けて官軍を撃つたが、背いて官軍に従ひ、元弘三年六波羅を亡ぼし、その功を以て鎮守府将軍となつた、建式元年恢復の功を追論し、尊氏を第一として武蔵常陸下総の守護とし、正三位参議となつた、尊氏大志あり、時勢に乗じて宿志を果さんとしたが、征夷大将軍護良親王の才武を恐れ、天皇の寵姫により親王を除き、二年北条時行を鎌倉に征し、勢を恃んで遂に叛した、天皇大に怒らせ給ひ、尊良親王新田義貞をして伐たしむ、尊氏駿河の国手越河原で大敗したが、相模国箱根竹下に尊良親王の軍を敗り、官軍に尾して西上す、沿道の官軍悉く破れたので尊氏は長駆京師に入り、車駕延暦寺に入つた、既にして北畠顕家陸奥の軍を率ゐて来り義貞と共に尊氏を攻め、互に勝敗があつたが、終に楠正成と戦ひ大敗して九州に走つた、間もなく尊氏は九州の諸族を服し大挙二十万、舟師七千隻を以て海陸より京師を侵す、湊川に楠正成、正儀を自刃せしめ、義貞を破り遂に京師に入つたので天皇は延暦寺に逃れ給うた、尊氏茲に於て賊名を恐れ豊仁親王を奉じて光明天皇と称す、是から南北両朝の争となつた、尊氏は北朝の天皇を奉じて北畠顕家を摂津阿部野に、新田義貞を越前足羽に破り、更に正平三年楠正行を四条畷に討つて天下の兵権を収め、足利将軍の基を開いたが、正平十三年四月、病を以て死す、年五十四、後光厳天皇従一位左大臣を贈り、更に長禄の初大政大臣を贈る、尊氏器宇弘裕、又深く仏教を信じ僧是円玄慧に命じて憲令十七条を定めしむ、是を建武式目といふ、又平生画を好み地蔵を信じ、其像を画き又和歌をも詠じた。  (大日本史―梅松論)

足利尊氏の画像といふもの、左に伝ふ。

土佐光信筆        熱田地蔵院蔵

同            前田候爵家蔵

同            松浦伯爵家蔵

無款  『尊氏騎馬像』  故小堀鞆音氏蔵

近代の作では左の作がある。

小堀鞆音筆  『足利又太郎』  池沢定吉氏蔵

福田恵一筆  『疎石』     第十二回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)