賀陽王
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かやのおう
画題
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解説
前賢故実
斉衡中、二品を叙せられた。勅命によって宮殿では剣を身につけることが許されていた。貞観初年、常陸太守を務め、のち治部卿となった。同五年、親王は官職を辞したいと上表したが、認めてもらえなかった。同九年、上野太守になり、治部卿の仕事をも続けた。その後太宰帥になり、まもなく薨去、享年七十八歳。親王は巧みに構想することに長けていた。曽ては京都で京極寺を創建したが、旱魃に遭い鴨河の水が涸れて、寺田の穀物の苗がほとんど枯れてしまった。親王は木で身長四尺ばかりの童子を彫り、童子の両手に器を持たせ、仕掛をつけて寺田に置いた。すると、水で器が一杯になると童子顔にそそぐので、これを見た人たちが、面白がり競って水を器に入れた。そのため、京極寺の寺田は涸れたことがなかった。
(『前賢故実』)