漢織呉織

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あやはとりくれはとり


画題

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解説

画題辞典

漢国より始めて我朝に来りし機女なり。応仁天皇の三十七年帰化人阿知使主(あちのおみ)、都加使主(つがのおみ)を呉に遣わし、兄媛、弟媛、呉織、漢織を得て帰り、是より本朝漢織の法盛になるという。本居宣長はあやはとりくれはとり同一のものにて二人とするは誤りなりと考証せるも、古来一般に二人の機女として知らる。

円山応挙、皆川淇園、対幅として二女を画きしものあり(吉田丹左衛門氏旧蔵)。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

応神天皇の御宇、はじめて漢土から来朝した織女のこと、『応神紀』に曰く

三十七年春二月戊午朔、阿知使主〈あちのおみ〉、都加使主〈つかのおみ〉を呉に遣して、縫工女〈ぬひたちめ〉を求めしむ、爰に阿知使主等高麗国に渡りて呉に達〈いた〉らむと欲し則ち高麗に至り、更に道路〈みち〉を知らず、道を知る者を高麗に乞ふ、高麗王乃ち久礼波久礼志二人を副へて導者〈しるべ〉を為す、是に由りて呉に通ることを得たり、呉王是に於て工女兄媛、弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与へぬ。

又『雄略紀』に曰く、

十四年春正月丙寅朔戊寅、身狭村主青等、呉国の使と共に呉の献れる手末才伎、漢織呉織及衣縫兄媛、弟媛を将て住吉津に泊る

と、その唐美人二人を画いたもの美しいので好画題とせられ、応挙の筆に皆川淇園が、

我民在古皮卉衣裳、皇天深憫恵沢無、方幽命二女来自異壌、蚕織于始、建機樹桑自是爾後服工穣々不但、免凍文綵実揚此、厥為徳天地無彊。

と賛した『綾呉二女』が聞えてゐる。(吉田楓軒氏旧蔵)

近くは左の諸作がある。

橋本静水筆  『あやはどりくれはどり』  第五回院展出品

佐藤光華筆  『漢織呉織』        第九回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)