最明寺時頼

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さいみょうじときより


画題

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解説

画題辞典

最明寺時頼は北条五代の執権なり、時氏の二子、幼字五郎、寛元四年兄時氏に代りて執権となり、従父光時の異志あるを糾して伊豆に流し、三浦泰村の宿将として横暴の行為ありしを尤めて之を殺し、北条氏の基礎を固うす。康元元年病を以て薙髪し最明寺に居る、時人因って最明寺殿と称す。尚、軍政を裁決し、自ら羸服して陽に遊僧となり、諸国を行脚して風俗を察したりという。弘長三年、三十七を以て卒す。

京都万寿寺に画像あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

北条時頼のこと、北条氏五代の執権である、時氏の子で泰時の孫、嘉禎三年元服し、寛元四年執権となる、此の時従父光時、将軍藤原頼経に寵あるを機とし、私かに時頼を廃して之に代らんと企てたが、時頼早くも之を知つて光時を伊豆に流し頼経を廃して頼経の子、頼嗣を擁立した、然るに三浦泰村また北条氏の威望を嫉み弟光村と図つて前将軍頼経と通じ頼経の復職を図り北条氏を討たんとしたので、時頼兵を遣して泰村を討ちこれが為め北条氏の勢力益々盛になつた、建長元年相模守となり三年正五位下に陞る、康元元年病のために薙髪し、その創建するところの鎌倉最明寺に入つて覚了坊と号した、これより世に最明寺殿と呼ぶ、職を長時に譲つてからも自ら遊行僧に身を変じ、親しく民情を視察したのは世の洽く知る処、弘長三年三十七を以て卒す、謡曲「鉢の木」は即ち、時頼と佐野常世のことを作つたもの、描かるゝもの極めて多く、その画像は京都万寿寺にある。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)