孟子

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もうし


画題

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解説

画題辞典

孟子に支那古代の哲人なり、名は軻、鄒の人、其先は魯の孟孫氏より出づ、子思の門人に就きて學業を修め、道己に通して齊の宣王に遊事せしも用ひられず、燕に往き恵王に説きしも、其説世情に疎なりとて聴かれす、常時恰も春秋戦国の際にして、合従連衡日も是れ足らざる時に當り、唐虞三代の徳を説きたるより、世人の容るゝ所とならざりしなり、是に於て退いて万章の徒と詩書を序し、孔子の道を祖述し。孟子七篇を著にす、人の性善なりといふ説と、仁義の読とに、その二大主義にして、後世孔子と並穪して孔孟といふ、土佐光起の図する所(京都杉浦二郎兵衛氏所蔵)あり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

支那の哲人、名は軻、字は子輿、魯の公族孟孫の後で、周の烈王の四年、魯の鄒県に生れた、所謂孟母三遷といふが如き、慈母の教化の下に天賦の人格、清浄にして高邁なる、孔子に近いものがある、恐らく孔子の遺教を奉じたものであらう、学は曽子に受け、或は子思に学び、子思の門人に受けたとの異説もある、兎に角孔子の遺風を受けてその師を聖化し、その説を拡張して仁義至上主義を唱へ斯道を大成し豊富な思想を以て梁、斉、宋、魯の間を遊説したが余りに理想の高遠な処から容れられず、孔子と同じ轍を踏んだ、退いて門人万章等と共に詩や書を評論し、孔子の旨意を祖述して孟子七篇を作つた、その性善説、仁義説はその二大主張であつた、周の赧王二十六年没した、齢八十四。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)