在原行平
ありわらのゆきひら
画題
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解説
画題辞典
平安朝時代の歌人にて、在原業平の兄なり。仁明、文徳、清和.陽成、光孝の諸朝に仕え、官民部卿に至る。攝州須磨に配流せられしことありしにや、古今集なぞにも見ゆ。謡曲「松風」は其の須磨配流の節松風村雨という姉妹の漁女を寵りしという伝えあるを取れるものなり。松風村雨に就きてはその条参照ずべし。
伝藤原為継筆という行平像あり。
(『画題辞典』斎藤隆三)
前賢故実
中納言正三位にまで昇った。実は平城天皇の孫であった。はじめは諸王であったが、天長中行平の母、即ち伊登内親王が上表して、息子たちに姓を下賜するようと願ったため、行平とその兄弟は在原朝臣という姓を賜った。貞観中、太宰権帥を務め、対馬の年間の食糧を筑前、肥前など六カ国から集めて、船で対馬まで運んでいた。しかし、危険な海路を通るので、船は十艘には六、七艘が遭難に遭い沈没し、多くの船員が溺死してしまった。行平は、「六カ国の穀物の漕運を止め、壱岐の水田を六カ国の民に営ませ、そこで収穫した米を対馬の食糧に充てる。また、壱岐から年租を取ることを止め、代わりに六カ国から年租を取る。」と朝廷に奏請した。行平は経典や史書に精通し、歌に秀でた。かつては上奏し許可を得て、左京三条のところで奨学院を創設した。寛平五年薨去、享年七十六歳。
たむらの御時に、ことによりてつのくにのすまといふところにこもり侍けるに、みやのうちに侍りける人につかはしける
わくらばに とふひとあらば すまのうらに もしほたれつつ わぶとこたへよ
(『前賢故実』)
東洋画題綜覧
阿保親王の第二子で、業平の兄に当る、承和中蔵人侍従、右近衛少将を経て天安元年兵部大輔となり、貞観中正四位下参議検非違使別当左衛門督に歴任し蔵人頭に補す、参議の蔵人頭を兼ぬるここに始まるといふ、尋で太宰権帥に任ず、是より先、奏して筑紫の穀を対馬に輸るを停め壱岐に水田を営ましめて対馬の年糧となす計劃を立てたり、肥前松浦郡の庇羅値嘉二郷を合し二郡を建て上近下近とせられんことを請ひ採用されたり、地方政治の上に効を樹て又奨学院を創立して子弟を薫陶したりし、民部卿まで進んで寛平五年薨じた、その生涯中、須磨に詫住した事があると見えて、松風村雨の二女と情事を謳はれこれが謡曲にも残り、また『源氏物語』須磨にも、
おはすべき所は、行平の中納言のもしほたれつゝわびける家居近き辺なりけり、海面はや入りて、哀に心すごげなる山中なり
とあるし『続古今集』には、
津の国須磨といふところに侍りける時よみ侍りける
旅人の袂すゞしくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風
とあつて、歌人としても聞えてゐる。なほ『松風村雨』の項参照。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)