伊川先生
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いせんせんせい
画題
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解説
画題辞典
伊川先生は支那宋代の学者なり、姓は程、名に頤、字は正叔、晌の子にして顥の弟なり。年十八、仁宗皇帝に説きて用いられず、入て大学に遊ぶ、英宗皇帝の時司馬光呂光著の推薦を以て経筵に召され声名漸く世に揚り、四方より来りて学を請ふもの日に多し。時に蘇東坂、翰林に在りて弟子多く頤と合はず、其学徒と互に相攻詆するに至る。世に之を蜀党洛党の論となす。紹聖中党禍に罹り、涪州に竄せらるゝに至りしが、徽宗皇帝の即位するに及び赦されて帰る。崇寧二年再び京を逐われ、龍門に抵り、大観元年七十五歳を以て此地に歿す。其学は誠を本とし四書を標楷となす、動止黙語一に聖人を師とす。頤嘗つて其兄顥と共に周子に学ぶ、その時顥曰く、他日克く人をして師道を尊厳にせしむるものは、実に吾が弟なるべしと、果してその言の如し、世頤を称し、程叔、程子、又伊川先生という。
(『画題辞典』斎藤隆三)
東洋画題綜覧
伊川先生は支那宋代の儒者、周茂叔の門人で河南の人、姓は程、名は頤、字は正叔、晌の子で明道(顥)の弟、少より識見あり万事礼でなければ動かず、十八の年、仁宗皇帝に上書して曰く『大政は王道を以てす』と、仁宗の容るゝ処とならず、遂に哲宗に仕へ崇政殿説書となつた、紹聖中、禍に罹り涪州に竄せられたが、徽宗皇帝即位するに及んで赦されて帰る、崇寧二年再び京を逐はれ、竜門に抵り大観元年七十五歳を以て其地に歿した、その伊川先生といふのは、竜門伊水に居を卜してゐたからで、文彦博は伊川を推賞して真の侍講といひ王安石も忠信真人として崇敬した、兄の明道と共に二程といふ、我が国にも程、朱の学説として伝へられ世を益すること少からず、時に画題となつて現はる。
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)