伊勢
いせ
画題
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解説
画題辞典
伊勢、平安朝の女性にして三十六歌仙の一人なり。前伊勢守藤原継陰の女、七条皇后の宮に仕え、藤原仲平と色聞あり、後、宇多院の寵を受けて皇子を生む、宇多院帝位を去るの後、伊勢亦野に下り、五条の里第に居る、此後復敦慶親王と相許し女中務を生む。最も和歌に巧なり、承平四年皇后宮五十の賀及同七年陽成上皇七十の賀に和歌を献ず。「春かすみたつを見すてゝゆくかりは 花なき里にすみやならへる」の歌など百人一首に選ばれたる「なにはかた」の歌と共に世に知らる。
東京帝室博物館に住吉具慶の筆及宮川長春の筆あり。
(『画題辞典』斎藤隆三)
前賢故実
藤原継蔭の娘。容姿が美しくて、和歌に優れていた。初めは七条后の侍女を務め、宇多天皇の寵愛されて御息所になり、行明親王を生んだ。宇多天皇が退位して仏門に入った後、伊勢は五条の私邸に移した。延喜中、皇子の着袴の儀のため、四季の絵が描かれていた色紙形の屏風が作られた。醍醐天皇は、屏風に載せる和歌を当時の歌人に作らせ、小野道風に命じて和歌を屏風に書写させることにした。小野道風は書こうとした時に、山桜の下の女車を描いた絵に和歌がなかったことに気づいて、帝に報告した。帝は「今まではどのような和歌を配したらいいかが分からなかった。絵を見てすぐに和歌を詠めるのは伊勢のみだ。」と仰った。それで、みやびやかで美しい容姿を持つ藤原伊衡が選ばれて、使者として伊勢のところへ遣わした。伊衡が伊勢の私邸へ行き、寝殿の南の廊下に立つと、一人の女房が来て伊衡を中へ案内した。中に入ると、三間ほどある客間に朽木形の几帳があって、高級な錦の座布団が敷かれており、蘭麝の余香が漂う中、簾の向こうに三、四人の侍女がいた。伊衡は簾の外で詔を伝えて客座に戻した。そして、赤い上着を着た二人の女童が銚子や盃を持って来て、さらに硯箱の蓋に赤い紙を敷き、その上に菓子を載せて伊衡の前に出した。伊衡が女童に酒を勧められて酔い始め、それからしばらくして、歌の書かれた紫色の薄い用紙を巻き、紐で括ってから同様の紙で包んだものに加えて、一揃いの女性の装束が簾の下から出された。これを取った伊衡は直ちに参内し復命した。その時、道風はまだ筆を持って待っていた。帝は伊勢の和歌に感心して嘆き、その場にいた人々はみんな伊勢の敏捷と聡明に驚いた。伊勢の作品に伊勢物語がある。
其歌曰く
ちりちらず きかまほしきを ふるさとの 花見てかへる 人もあはなむ
(『前賢故実』)
東洋画題綜覧
平安朝の女流歌人にして、三十六歌仙の一人、前の伊勢守藤原継陰の女、七条后の宮に仕へ、一時藤原仲平と想思の仲となり、後宇多帝に寵せられ、寛平の末年行明親王を生む、帝御譲位の後、伊勢亦退いて五条の里第に住む、後また敦慶親王の愛を受けて女、中務を生む、和歌の道に秀で承平四年、皇后宮五十の賀及び七年陽成上皇七十の賀の屏風に並に和歌を献ず。 (三十六人歌仙伝)
きさいの宮の五十賀せさせ給ふに御屏風に祓するところ
楔ぎつゝ思ふ事をぞ祈りつるやほよろづよの神のまにまに (伊勢集)
その画かるゝ処、多く歌仙である。
松花堂筆 今井五一郎氏旧蔵
藤原信実筆(三十六歌仙の中) 佐竹侯爵家旧蔵
英一蝶筆 郷男爵家旧蔵
佳吉具慶筆 帝室博物館蔵
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)