一休禅師
いっきゅうぜんじ
画題
画像(Open)
解説
(分類:物語)
画題辞典
一休禅師は、京都紫野大徳寺第四十七世の住僧なり。名は宗純、初めの名に周覚、一体はその字で、又別に狂雲子、無囲、瞎驢、国景等の号もある。後小松天皇の落胤という、六歳にして安国寺の侍童となり、十三歳出遊の志あり、宝憧寺清叟仁に就き、内外の書を講究す、応永二十二年近江堅田に赴き、華叟に謁を求め門下に列る。一日瞽者の妓王の物語を演奏するを聞きて、忽然として省す、華叟即ち一休の二字を書して之に与ふ、因りて之を称す。その後諸方に遊行し、和泉に幽棲したが、市に出づる毎に一木剣を手にしたという。永享十六年大徳寺如意庵に入り、更に瞎驢菴に移る。応仁元年兵乱を避けて薪の酬恩庵に入り、尋いて諸方に関居せしが、六年二月勅請を拝し大徳寺住持となる。十三年十一月二十一日寂す、年八十八。一休性磊落にして驕慢、而も人之を敬畏す。又その縦横の機智は逸話として真偽混淆して世に伝わる所多し。一休禅師を画けるもの、
京都大徳寺及山城酬恩庵にあり、又土佐広周筆の一幅福岡子爵所蔵にあり。
(『画題辞典』斎藤隆三)
東洋画題綜覧
高僧、五山文学者、名は宗純、字は一休、別に狂雲子とも号した、応永元年正月元日を以て生れた、母は藤原氏、後小松帝に寵愛せられたが娠んだので宮を出で、民間にあつて宗純を生んだといふ、齢六歳で京の安国寺像外鑑に童役となり、十二歳で壬生の清叟仁に謁して教乗を聴き、また建仁寺の慕哲竜樊に詩を学び毎日一首を課せられたといふ、後、西金寺の謙翁に参じ高風を慕つて師事すること六年、翁入寂するや江州堅田の華叟曇和尚の会下に投じたが華叟拒んで容れず、一休即ち漁舟に宿り、或は露地に臥して懇請し、遂に許された、或る夕鶉の鳴くのを聞いて頓悟する処あり、華叟に所見を呈すと、華叟の曰ふ、是れ阿羅漢の境界、作家の境界でないと一休の曰ふ、私は只此の境界を喜ぶので作家分上を喜ばぬと華叟頷て記を授け、また伝来の印書を与へた、宗純之を地に抛つて出で、これから放浪の放に出た、京都の尸陀寺、酬恩庵、泉州の慈済寺等はその巡錫の地である、後小松帝御譲位の後、一休を召され常に法要を問ひ寵遇甚だ厚く、称光、後花園二帝相継いでこれを崇信した、初め称光帝、まだ東宮を立て給はず、 一休即ち密に彦仁親皇をすすめ奉る、これ後花園天皇である、かくて一休は三帝の寵を承けた、文明六年大徳寺に入らんことを懇請されたが終に住せず、同十三年十一月二十一日、自ら須弥南畔誰会我禅、虚堂来地、不直半銭と偈を書し瞑目して入寂す、寿八十八。 (五山文学小史、日本人名辞書)
一休禅師の像は、京都大徳寺及酬恩庵あり近く画かるゝもの極めて多い。
墨斎賛 『一休像』 岡崎正也氏蔵
下村観山筆 細川侯爵家蔵
同 淡交会六回展出品
野田九浦筆 昭和十二年文展出品
平福百穂筆 静岡青竜寺蔵
(『東洋画題綜覧』金井紫雲)