A3-0 妖しの力...
-
妖怪や幽霊と聞いた時、何を思い浮かべるだろうか。妖怪であれば雪女や山姥、幽霊ではお菊やお岩があるが、この区分は明確ではない。しかし、大まかな違いとしては妖怪は人外に基礎を置くのに対し、幽霊は生前の姿をとることが挙げられる。また、女性の姿をした妖怪、幽霊が多いという印象があるが、主たる理由としては2つ考えられるだろう。1つは社会体制であり、2つめは仏教思想である。当時は男性中心の社会体制であり、女性は生活の制限を余儀なくされていた。そこで女性は鬱憤や執着心をもち、これが凄まじい力をもって人々の前に現れるのである。他方、この社会体制の根底にある仏教による都合も看過できない。仏教は女性を血にまみれた穢れた存在とみなし、びっくりするような女性差別思想をもつ。実は、これは仏教の権威付けのために女性のもつ神聖で強力な力が利用されたのである。仏教は女性を悪なる存在として位置付けることにより相対的にその威力を示し、あまつさえ穢れた女性までも救うという構造をとることで慈悲深い宗教としての地位を獲得した。こうして女性は「瓜子織姫」や「食わず女房」など、人に害なす存在として登場し、これを仏教が退治したり救ったりするのである。
女性はもともと「生み出す」力を持った神に通じる神秘的かつ、畏怖すべき存在であった。この女性の力が仏教によって人を死に至らしめる悪なる力となり、妖怪の側面も併せ持つようになったのである。しかし、女性の妖怪は単に人を傷つけるだけではない点に留意したい。前述のような例がみられる一方で力を与え、人に幸をもたらす側面も併せ持つのである。これは、女性の聖なる力(人に幸をもたらす)が妖怪となった後にも残されたことを意味しており、民衆にまで仏教による女性差別思想が完全に浸透しなかったことの裏返しである。民話や説話にはそうした女性の原点の姿が描かれており、このコーナーではそうした変遷を辿ってきた「山姥」と「産女」に焦点を当てる。(浅.)・もっと知りたい妖怪と幽霊の分類
柳田國男によれば、両者は場所や時刻などによる分類をはかることができ、妖怪は特定の場所で相手を選ばないのに対し幽霊は特定の時間に特定の相手に現れるとのことである。・「瓜子織姫」
瓜から生まれた小さな女の子は美しく成長したのち殿様の嫁に望まれるが、その途中山姥(天邪鬼)の妨害を受ける。地方によって結末が異なり、東北では瓜子姫は山姥に喰われてしまうが、西の方では仏教の力によって山姥を撃退し、幸福な結末を迎える。・「食わず女房」
≪ 続きを隠す
男の願望叶って「食事をしない女」が嫁入りをするが、なぜか食料は減っていく。怪しんだ男が出掛けるふりをして家を覗くと、そこではなんと女房が頭からもりもりご飯を食べていた。正体が山姥であると知った男はその場から逃れようとするが、お約束通り山姥はその後を追ってくる。男はそこで菖蒲(しょうぶ/アヤメ)の下に隠れ、無事難を逃れた。
ところで、端午の節句をご存知だろうか。5月5日のこどもの日であるが、鯉のぼりに加えてここで菖蒲が飾られる。一説にはこの「食わず女房」に由来し、魔よけとして用いたことに始まるという。しかし、同時にこの端午の節句では山姥に育てられた過去をもつ金太郎(詳しくはA3-2参照)、すなわち五月人形の存在を忘れてはならない。五月人形は江戸時代に庶民の間で流行りだしたが、あくまで「悪」に焦点が置かれ、山姥自体を人に害なす存在と見なしていなかったからこそのコラボレーションであろう。