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総合

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和漢百物語 白藤源太

「白藤源太」

<翻刻>
上総の国夷隅群神沖村百性左え門
が一子にして力量あくまて強ければ平常に
角力を好つゝ数多の力士と立合更に
一個も手にたつ者なし故に其名遠近に高
く人ゝ群て感じあへり有夏柳下に彳た
りしに一個の河童立現れ彼と力量を
競んとす其時白藤一唱して忽彼をば投
殺しぬ      菊葉亭露光記


絵師:芳年
落款印章:一魁斎芳年画
改印:丑二改(慶応元年 二月)
版元:ツキヂ大金


<翻刻 訳>
白藤源太は上総の国の夷隅郡の神沖村の百姓である源左衛門の一人息子である。
白藤源太は相撲を好み、数多くの力士と相撲を取った。しかし、白藤源太に勝てる者は誰ひとり居なかった。白藤源太の名声はあちらこちらに広がり、多くの人々が高く評価し、称賛した。
ある夏、柳の木の下で立ち止まっていると1匹の河童が現れ、白藤源太と力比べをしようとした。白藤源太は一喝し、すぐに河童を投げ殺した。

<作品について>
・白藤源太と河童
白藤源太と河童の絵が一番最初に描かれたのは、山東京伝作・歌川豊国画の『白藤源太談』と思われる。 そして、三代歌川豊国の「大日本六十余州之内 上総」(1845年) MFA,Boston(11.42448) [1]

はこの絵の構図から、『白藤源太談』の挿絵をもとにしていることがわかる。

これらの作品は白藤源太と河童について描かれたものであるが、和漢百物語の絵とは違っている。これらの作品は『菊葉亭露光記』に書かれているような、「白藤源太が河童を投げ殺した」絵である。しかし、和漢百物語の絵は「白藤源太が河童が相撲を取っているのを見ている」絵である。
しかし、『白藤源太談』以降、白藤源太と河童を描いた作品を見つけることができなかった。 つまり、『白藤源太談』もしくは「大日本六十余州之内 上総」以降に、和漢百物語のような構図で描かれたものを見つけだすことができなかった。故に、「和漢百物語 白藤源太」の題材をはっきり示すことはできなかった。 これより、「和漢百物語 白藤源太」の構図を、白藤源太と河童とに分けて考える。



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・白藤源太のポーズ
この、豊国「白藤源太 坂東三津五郎」(1810)は、歌舞伎「勝相撲浮名花触」の「大のしの場」の場面を描いている。これより、「白藤源太が竹のベンチに座る」という構図が定着していたと考えることができる。

しかし、英論文によると、「柳の木の下で、竹のベンチに座っている」という構図は『新編水滸画伝』の初編巻之三に出てくる「九紋竜史進」に共通すると指摘している。

『新編水滸画伝』の初編巻之三に描かれる「九紋竜史進」と「和漢百物語 白藤源太」のポーズが一緒である。
柳の木の下で竹のベンチに座っている白藤源太。片足を曲げて座り、浴衣をはだけさせ、団扇をあおいで涼んでいる様子は、どちらの絵にも共通する。


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また、芳年は水滸伝の肖像画を多く描いており、水滸伝を愛読していたのがわかる。
月百姿」においても九紋竜史進が描かれ、そしてポーズも『新編水滸画伝』と一緒である。


さらに、白藤源太の浴衣の柄も九紋竜史進である。 また、浴衣がはだけている姿から、実際に白藤源太の体に竜が彫られているように見ることもできるのではないだろうか。これより、あえて『新編水滸画伝』の九紋竜史進のように、服を脱いで上半身をほぼあらわにするのではなく、胸元だけをはだけさせることによって、より九紋竜史進と白藤源太を近づけたのではないだろうか。


・九紋竜史進と白藤源太を結びつけた理由
九紋竜史進と白藤源太を結びつけるには何かしら二つに共通するものがあるはずである。 共通していると思われるものとして
・農家の生まれ。だが農業を嫌い、別の道を究める。
・力が強く、一目おかれていた
・侠客である
・非業の死をとげる
・ほぼ同時期にブーム
があげられる。

九紋竜史進と白藤源太は、二人の性格や生涯の始まりと終わりも共通・似ているだけでなく、九紋竜と四股名をつける力士が現れたことからも、これらがほぼ同時期にブームが起こっていたことがわかる。江戸の人々の間で人気になったことは九紋竜史進と白藤源太を結びつける理由として大きいのではないだろうか。






<河童について>
水中に住むと想像されている妖怪である。水神の零落した形であるというのが通説。形状は一般的には童子の姿で、頭髪は捌けている、いわゆるオカッパ頭で、頭上に皿形のへこみがあり、そこにある水があり、活力の源となっている。水がなくなると力を失うとされている。顔は口先が尖り、手足先に水かきがあり、よく泳ぎ、歩行も自由にできる。相撲と胡瓜を好み、水中に潜んで人や牛馬の肛門から手を入れ肝を抜き取る。しかし金物を嫌う。
河童の伝承は日本全国に分布し、河童と呼ばれるだけでなく、川太郎やカワコなどとも呼ばれ、八十以上も異名がある。河童の失敗談も多く、罪のわびに魚や薬を人間に贈る話などもある。河童は多くの属性を持っている。魔性、超能力、怪奇性など、さまざまな怪しい属性があった。しかし、危険でいたずら者だが人間に福をもたらす面もあり、憎めぬ妖怪、というのが総合的なイメージである。
江戸時代の河童のイメージは二つの系統にわかれる。「甲羅のない 猿・カワウソ系」と「甲羅のある 亀・スッポン系」である。江戸時代には二つの系統の河童が存在したといわれている。

河童が文献上に初めて現れるのは『日本書紀』であるとされる。しかし、それ以後は文献上に姿を現さず、江戸時代に入ってから再び文献上に見られるようになり、江戸後期に全盛期を迎える。江戸時代までに河童が存在していなかったということではなく、江戸時代にいかに河童が人気を博していたのかがわかる。江戸時代に入り、文章だけでなく絵画にも登場するようになり、本草学者をはじめ、医師、文人、一般の絵師が河童に強い興味を持っていた。河童は浮世絵にも多く登場したが、一枚絵としてよりも、英雄の武勇談の添え役として武者絵に扱われることのほうが多かった。

河童は相撲好きである。好んで人を求めて相撲を挑む。相撲で人間が負けてやると魚などをご馳走してくれるが、人間が勝った場合は河童は深く恨み、人間を水中に引き入れる。なので普通の人は極力河童を避けるようにし、河童の挑戦に応じるのは専ら力士か力自慢の者であった。

河童は水神の零落した形であることから、河童の力の根源を水界から求めている。これより河童は水中においては千人力と言われ、陸とは比べられないほど強力な力を発揮する。しかし、河童は陸上の相撲を好むのである。河童が相撲好きなのは神事との関係が深いからであるという説がある。 日本で最初の相撲は垂仁天皇7年7月7日の野見宿禰と当麻蹶速との力比べと言われている。奈良・平安時代には宮中の行事としても行われていた。本来相撲は、端午の節句、七夕、二百十日の頃に行われ、水の精霊と相撲をとって供養する。また、東西の土地の代表が相撲の勝負をし、勝った側の土地に豊作が来ると信じられている。これより、水の精霊が相撲を好み、河童が勝負にこだわるのも、勝った側に神霊の加護がもたらされるという信仰にもとづいているからである。



・河童のポーズ
「和漢百物語 白藤源太」で描かれている河童の画の構図は『日本山海名物図会』で描かれているものとどことなく似ているように思える。九州大学デジタルアーカイブ[2]
『日本山海名物図会』の第3巻において、河童が「河太郎」の名で豊後の名物として載っている。説明には、「河太郎豊後に多し 其外九州の中ところどころに有 関東に多し 関東にては河童と云也」とある。このことから、河童は必ずしも豊後の特産というわけではなく、他の地にも居たこと、関東では河童と呼ばれていたこともわかる。 また、『名物図会』の河童の形状は「甲羅のない、猿・カワウソ系」である。
『名物図会』の河童は、単独ではなく一枚の画の中に複数の河童が描かれている。相撲を取っている河童、それを見る河童という点では「和漢百物語 白藤源太」で描かれている河童に似ているように思える。まったく構図が同じとは言い難いが、河童同士が相撲を取っている画もあまり見られないため、芳年が参考にしたと考えられなくもないのではないだろうか。



<まとめ>
この作品の題材を見つけだすことはできなかった。しかし、作品に登場する、白藤源太と河童を個別に考えると題材らしきものを見つけだすことができた。この作品の題材とも言える作品がある可能性が高いが、白藤源太と河童それぞれに題材があるとも考えることもできるのではないだろうか。ただ、白藤源太と九紋竜史進がブームになっている時から芳年がこの作品を描くまで時間があいている。しかしブームがたとえ終わっていたとしても白藤源太や九紋竜史進が人気だったには変わらず、それはこれらがでてくる歌舞伎の演目が存在していることからも言える。河童についても同じことが言える。江戸時代に人気を博した河童は江戸時代から現在までに人々に語り継がれてきたのである。 これより、個別に題材があると考え、自分なりに題材とされるものを探し、可能性として高いように思えるがそれを題材として決定づけるには、理由が少し不透明でありまだ早いように思える。もっと決定的な理由が必要であろう。

また、和漢百物語が武者絵であるにもかかわらず、この絵には白藤源太の力強さがあまり伝わってこない。菊葉亭露光記の内容よりも優しいイメージで描かれている。武者絵らしく、白藤源太の力強さを表すのであれば、3代豊国「大日本六十余州 上総」の白藤源太のように、白藤源太が河童を投げ殺す場面を描いた方が力強さが伝わってくるように思える。なぜ芳年が武者絵にもかかわらず力強さよりも優しさを優先させたかもわからない。この点に関しても研究を進めていかなければならないだろう。





参考文献
『日本説話伝説大事典』
『日本伝奇伝説大事典』
『千葉県夷隅郡誌』臨川書店 1924年
『歌舞伎登場人物事典』
鶴岡節雄校注『山東京伝の房総の力士白藤源太談』千秋社、1979年
高田衛『游戯三昧之筆ー馬琴・虚構の工学』(『文学 第8巻第1号』より)2007年
『日本国語大辞典』
『原色浮世絵大百科事典 第四巻』
高島俊男『水滸伝と日本人』筑摩書房、2006年
高島俊男『水滸伝の世界』筑摩書房、2001年
大野桂『河童の研究』三一書房 1994年
飯田道夫『河童考-その歪められた正体を探る』人文書院 1993年
早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム[3] 2010年6月5日閲覧
九州大学デジタルアーカイブ[4] 2010年6月5日閲覧
ボストン美術館 http://72.5.117.144/fif=fpx/sc1/SC177220.fpx&obj=iip,1.0&wid=600&cvt=jpeg 2010年6月5日 閲覧