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総合

「東海道五十三次 吉田 北八」「東海道五十三次 御油 弥次郎兵衛」

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画題: 「東海道五十三次 吉田 北八」「東海道五十三次 御油 弥次郎兵衛」

絵師: 豊国<3>

版型:大判/錦絵

落款印章: 豊国画(年玉枠)

改印: 巳二

出版年月日: 安政4年(1857年)2月

出版地: 江戸

配役:《喜太八》…初代 中村鶴蔵 《弥次郎兵衛》…初代 中山市蔵


【題材】

この絵の題材となったのは『旅雀我好話(あひやどばなし)』であり、実際に上演されたものと考えられる。 安政元年、七月三日より、中村座『旅雀我好話』。龜山仇討へ膝栗毛を書入されたものである。 三代目桜田治助の『旅雀我好話』で三代目中村仲蔵の喜多八が大当たりし、役者は真面目に江戸っ子の扮装で、脚色の滑稽味をいかすのが江戸時代の喜多八の代表的な型となる。


『旅雀我好話』のもととなった『膝栗毛』とは、十返舎一九作・画の滑稽本『東海道中膝栗毛』およびこれに続く『続 膝栗毛』以下の類作を総称するが『東海道中』で代表される事が多い。正編は初編から八編までが享和二年から文化六年にかけて刊行され、のち主人公の素性紹介の発端編一冊を文化十一年に発刊して添える。続編は『続 膝栗毛』。正編は主人公、栃面屋彌次郎兵衛と北八が東海道を上り、四日市から伊勢参宮をして、京から大坂に至る。続編は「金毘羅参詣」「宮島参詣」「木曾街道」を通って江戸へ帰着して全編完結。初編刊行から二十一年の年月にわたって行われた好評策。宿駅風俗よりもむしろ彌次・北の滑稽とギャグが時好に合ったらしい。浮世絵に扱われるものも総じてそのような場面が選ばれており、それも東海道中におけるものがほとんどである。小田原の旅籠での五右衛門風呂の騒動(初編)、三島の宿屋の夜のすっぽん騒ぎ(二編上)、塩井川における座頭とのやりとり(三編下)、浜松の宿屋の夜、干し物を幽霊と間違えるおかしみ(三編下)、四日市の旅宿の夜中(五編上)、京都方広寺大仏殿の柱の穴くぐり(六編下)等。なお東海道全宿駅における行動を描いたシリーズも少しある。



(昭和三十七年『歌舞伎年表 第七巻』岩波書店 井原敏郎、昭和五十七年十一月十日『第十一巻 歌舞伎・遊里・索引』鈴木敏夫)


【登場人物】

栃面屋弥次郎兵衛・・・生まれは駿河の府中(現在の静岡県)。親の代から、相応の商人であって、百両や二百両の小判にはどんなときでも困らない身代であった。安倍川町の遊郭の色と酒にはまり込み、その上、旅役者華水多羅四郎の抱え役者鼻之助(後の喜多八)が男色の道で客を大切にする者であると思って、郭巨が黄金の釜を掘り出したように、良い相手を得たものだと喜び、遊びの限りを尽くし、ついには身代にまで、とんでもない穴を掘り明けて、それでもまだ遊びがやまず、そのあげくには、若衆の鼻之助と二人尻に帆かけてすたこら府中の町を駈落ちし、'借金は富士の山ほどあるゆえにそこで夜逃げを駿河ものかな’(借金は富士山ほどあるので、そこで夜逃げをする駿河者であるよ)という一首をよむ。


喜多八・・・旅役者華水多羅四郎の弟子で、串童。最初の名前は鼻之助であったが、弥次郎についていて、一緒に江戸に出てくることになり、持ち金を裕福に使ってしまい、こんなことではどうにもしようがないと、弥次郎に元服させられ、喜多八(北八ともかく)と名乗らされた。名乗らされてから、かなりの身代の商人のもとへ奉公に出させたところ、喜多八は元来気が利いてのみこみも早いだけに主人に気に入られ、たちまち、小遣い銭くらいには困らぬ身分となる。


串童・・・陰間とも書く。男色を商売にしている少年。役者の卵たちがひいきの客筋の宴席に侍り、枕席にもはべった。


(『東海道中膝栗毛』昭和六十二年 ほるぷ出版 武藤元昭、『東海道中膝栗毛』世界文化社 安岡章太郎 2006年)

【配役】

初代 中村鶴蔵・・・文化6(1809)年〜明治19年12月24日(1886)。享年78歳。出身は江戸。文政1年〜明治18年まで活動していた。初名は中村鶴蔵、俳名は雀枝、秀雀、舞鶴、秀鶴。屋号は成雀屋、舞鶴屋。浅草の旅宿の番頭村田市兵衛(前越中富山藩の足軽)の子。母は玄米問屋稲田久兵衛の次女おとね(舞踊家11代目志賀山勢以)。幼児名を富太郎(亀吉)と云い、2歳の時に父が没したので、母は振付師中村伝次郎を継承させる予定であったが、文化11年冬、振付師を嫌って5代目中村伝九郎(のち12代目勘三郎)の門人(のち娘婿)となる。中村鶴蔵と名乗り、師について修業。文政元年11月江戸中村座「伊勢平氏摂神風」に禿文字野役で初舞台を踏む。8年11月同座「鬼若根元台」に所化満月役。12年3月同座「義経千本桜」に雲助びたの専役で公表、上方に行き、11月京北側芝居に勤め、のち諸国へ旅芝居に出る。天保9年4代目中村歌右衛門と共に江戸にもどり、3月中村座「桜門詠千本」に勤める。13年8月給金が60両ときまる。嘉永3年再び大阪の舞台に勤める。4年10月師の12代目勘三郎が江戸で没す。5年2月大阪にて4代目中村歌右衛門が没し、鶴蔵が遺骨を携えて江戸に戻り、6月中村座「綴合操見台」に滝口上野役、「夏祭」に三婦と義平次の2役。さまざまな芝居に勤め、明治19年6月中村座の新築落成の舞台開きに一世一代の口上をのべ、舞台より引退する。時代物と世間物に適し、醜悪であったが、敵役と実悪を兼ね、武道事・所作事を得意とし、芸道にすぐれ<<芝居の師匠番>>と云われた。また、文筆にも通じ著者に自伝の『手前味噌』『秀鶴日記』、句集『絶句帖』がある。なお、中村勘三郎系の家督14代目を継ぎ座本として勤めたと云う。門人に4代目仲蔵、2代目中村鶴蔵・中村鴻蔵がいる。墓場は東京都台東区中谷墓地。


初代 中山市蔵・・・未詳〜安政4(1857)年4月26日。初代中村現十郎。文政9年より、初代中村源治をなのるが、文政10年正月『役者註真庫』京大坂の巻、角髪娘形子役の部に名が見えるのみ。文政13年より初代源十郎を名乗り三代目中山文七の門弟。正月南側芝居、立ち役の部に名が見え「中山氏は始源治と申せしお子でござります」とある。天保5年に中山我丈とし、11月南側芝居、辻番付に名が見える。天保6年に中山源十郎を再び名乗り、天保15年に中村現十郎となる。嘉永3年初代中山市蔵となり1月中村座役割番付に名前が見える。嘉永7年に『旅雀我好話』で喜多八を演じた3年後、安政4年没となる。

(昭和四十三年『歌舞伎俳優名跡便覧』、2006年『歌舞伎時登場人物事典』)

【場面】

安政元年七月 絵師:豊国〈3〉 落款印章:豊国画(年玉枠)

場面は旅雀我好話、第五幕下の吉田の場面であると考えられる。喜多八と弥次郎兵衛は六部と巡礼と、その孫娘がいる宿にとまり、夜中に手を出そうと忍んでいくのだが、天井の板を踏み抜き、仏壇の中へ落ちる失態を演じる。がしかし、喜多八が夜這いしていたのは宿の婆であり、とんだ失敗をしたという場面である。もととなる東海道中膝栗毛の話では蒲原の宿での話。横の画像は、喜多八が天井からおち、木魚とバチを持っているところ。

六部・・・ろくぶ。六十六部を略した呼び方。もとは六十六巻の法華経をもち、諸国の社寺に一挙ずつ奉納して歩く宗教者のことをさした。

【吉田と御油】

吉田・・・第34番目の宿駅吉田は二川と同じく三河国渥美郡に属す。二川から1里半2町の距離にあり、現在の豊橋市。天保当時は松平伊豆守7万石の城下町であった。白は町の右手に位置し、豊川の東岸に臨んで建つ。


御油・・・第35番目の宿駅御油(ごゆ)である。三河国宝飯(ほい)郡(現在は豊川市に属す)。往還の真ん中で2人の旅人の腕をとらえ、肩の荷物をつかんで強引に引き戻している女性たちは、副題にもある留女である。彼女たちは旅籠の客引き女で、道行く旅人を宿に泊まらせようと引っ張り込み、夜は飯盛女(めしもりおんな)として枕席をつとめるものも少なくなかった。


豊国〈3〉東海道五十三次の内 御油
豊国〈3〉東海道五十三次の内 吉田
豊国〈3〉東海道五十三次の内 吉田と御油

(『広重 東海道五拾三次』岩波書店 鈴木重三 2004年) 

【手前味噌】

【衣装】

刳り下げ髪・・・髪の毛を刳り下げた髪で、喜多八のようなおかしみの役、または端敵に用いる。

(昭和五十六年 『原色 浮世絵大百科事典 全十一巻』)

参考文献

『歌舞伎脚本傑作集. 第6巻』 坪内逍遥, 渥美清太郎 編 春陽堂 大正11

『歌舞伎俳優名跡便覧』昭和四十三年

『歌舞伎時登場人物事典』2006年

『原色 浮世絵大百科事典 全十一巻』昭和五十六年

『歌舞伎年表 第七巻』岩波書店 井原敏郎 昭和三十七年

『第十一巻 歌舞伎・遊里・索引』銀河社 鈴木敏夫 昭和五十七年

『東海道中膝栗毛ーお江戸を沸かせたベストセラーー』世界文化社 安岡章太郎 2006年

『東海道中膝栗毛』ほるぷ出版 武藤元昭 昭和六十二年

『広重 東海道五拾三次』岩波書店 鈴木重三 2004年